2015/07/22 00:25 | 中央アジア | コメント(2)
中国・中央アジア・トルコ③:トルコ系民族の興亡(後編)
「中国・中央アジア・トルコ②:トルコ系民族の興亡(前編)」の続きです。
今回は、西アジアでのトルコ系民族について。こちらは、主にローマとイスラムの史料から明らかにされます。
西アジアでは、7世紀からアラブ人がイスラム帝国を築き、642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝を破って中央アジアに進出します(ちなみにササン朝(ペルシア人)はアラブ人を「ターズィーク」と呼び、中国の史書では「大食」と書かれますが、後にイスラム化した中央アジアの定住民はすべてターズィークと呼ばれるようになります)。
8世紀のアッバース朝の時代から、中央アジアのテュルク系民族が奴隷として輸入されるようになり、特にイラン系のサーマーン朝において、武力に優れていることから軍人(アミールの親衛隊)として登用されます。中央アジアでは、前回の記事のとおり、西突厥の滅亡後、ウイグル、キルギスといったテュルク系遊牧民が割拠していましたが、これらの集団はそれぞれイスラムを受容するようになります。その流れを決定づけたのがカラハン朝であったことは前回述べました。
カラハン朝はサーマーン朝を滅ぼし、そのイスラム文化を受け継ぐことでテュルク系イスラム文化を創り出します。さらに、西トルキスタンを支配することで、この地域のテュルク化が進みます(東トルキスタンは、前回述べたとおり、9世紀のウイグルの移動により一気にテュルク化が実現しました)。
そして、西トルキスタンにいたセルジュク家がイスラム教に改宗し、11世紀にイランに最初のテュルク系イスラム王朝であるセルジュク朝を建てます。セルジュク朝は、ビザンツ帝国と争って1071年にアナトリアを奪い、この地に多くのトルコ系国家が成立します。これによりアナトリアはテュルク系民族の土地となります。アナトリアは現在のトルコ共和国のアジア部分の領域であり、この地域はヘレニズム文化圏からイスラム文化圏となるところ、現代の「トルコ共和国」の源流が築かれることになります。
そして、オスマン家が13世紀にアナトリアで台頭し、最大のテュルク系イスラム帝国であるオスマン帝国を築きます。現在のトルコ共和国は、第一次大戦後、このオスマン帝国をアラブ人とトルコ語を話す人たちの勢力範囲に分解して成立した国です。上記のとおり、もともとテュルク系民族は中央ユーラシアの遊牧民であったところ、その活動領域はオスマン帝国の領域と一致するわけではありません。
しかも、オスマン帝国ではトルコ語が使われていたとはいえ、民族・宗教を越えた勢力であり、帝国の人々とは「オスマン家」に所属する人々であって、トルコ民族国家というアイデンティティをもっていたわけではありませんでした。しかし、トルコ共和国が成立したところで、建国の父であるケマル・パシャは、「オスマン家」「イスラム」というアイデンティティから脱却して、トルコ国民国家の統合を実現するため、トルコ民族主義と脱イスラム化をスローガンにかかげました。
このため、トルコ民族とは中央ユーラシアから西アジアを制覇した偉大な民族であり(突厥が建国した552年、セルジュク家がアナトリアを奪った1071年は、いずれも現代トルコにおいて特別な年とされています)、トルコ共和国こそが純粋なトルコ民族による正統な国家である、という物語が主張されるようになりました。
そういうわけで、「トルコ人」というと、我々は現代の近代国家である「トルコ共和国」に住む人々をイメージしますが、もともとは、中央ユーラシアにトルコ語系の言語を話す多種多様な遊牧民がいたところ、その中でアナトリアに定着した者が「トルコ人」となり、残りの大部分は中央ユーラシアの広い領域(「トルキスタン」)に展開し、それぞれの国民国家を築く、ということになったわけです。
そして、トルコ人は、前述のとおり、自らが正統のトルコ民族と認識しているので、ウイグルやトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタンといったテュルク系国家に対して親近感をもっています。「ゼロ・プロブレム外交の挫折」で述べたように、これらの国々との関係は良好です。
今回の話はかなり分かりにくかったと思いますが、この分かりにくさの理由は(説明をはしょったこともありますが)中央ユーラシアの遊牧民は、定住社会(都市文明)のように体系的な歴史を残しておらず、その存在は主として中国の史料やイスラム世界の文献から確認されるためです。
スキタイ(月氏)、パルティア(イラン系)、エフタル(テュルク系)、フン(匈奴)、アヴァール(柔然)、ブルガル(テュルク系)、ハザル(テュルク系)といった、中央アジアから東欧にかけて活動した騎馬遊牧民も、いずれも、強大な軍事力をもって定住社会を圧倒した割には、歴史の中でなんとなく脇役扱いされることになります。これも、主としてローマの資料から確認されるためです。
そして、中央ユーラシアの遊牧民世界は、東洋と西洋という二つの強文明の狭間にあって、その騎馬と弓矢による軍事力を活かして強勢を誇りますが、火器の登場により軍事的優越を失います。清朝、ロマノフ朝、オスマン朝、ムガール朝といった巨大な帝国が興隆し、その領域が分断される時代において、その周縁化は明らかになりました。
歴史は勝者によってつくられる、と言いますが、歴史は語った者によってつくられる、ということです。次回はこの応用編として中国の歴史について述べてみます。
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2 comments on “中国・中央アジア・トルコ③:トルコ系民族の興亡(後編)”
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匈奴と柔然は黄色人種ですが、スキタイ・月氏は言語的にもどっちなのでしょう。同じ白人系でも印欧語系、テュルク系、アラブ系といろいろありますね。肌の色素の付き具合も違い語られていないことが多いとは思いますが。黄色人種は酷寒に永く暮らしていたので短足、凹凸のない顔面になったという説を聞いたことがあります。
彼らは無文字で遊牧、しかも遺跡なんかも砂漠や草原に埋もれているので出てこない上に、遊牧民族同士の攻防で一族が吸収されてしまうこともある上に、彼らの事を伝えるのは仰る通り「勝者」か「敵対者」なので、正確な情報は出ないでしょうね(歴史にまったく残っていない民族も沢山いるでしょうし)。
後、軍事的に遊牧民(軽装騎兵)に対抗するのに、平地の民が編み出した、或いは効果があった兵器・兵種は、強弩・合成弓(これで拠点の防衛が非常に楽に)、重装騎兵(高単価な装備の取得・維持の為に「騎士」に土地・領民が必要で、封建社会への移行を促す)、訓練された重装歩兵(密集隊形ですと騎兵の突撃に耐えうる)、前装式火打銃、大砲だと思います。大砲は18Cの仏のルイ王朝末期に野砲が出来るまでは、重量や火薬等の扱いにくさから野戦では使いにくいものだったようです。