2008/07/18 09:25 | Weblog | コメント(29)
NOMO !!
今日は仕事の話じゃないす。
野茂選手の引退。僕にとって彼ははまさに救世主だった。アメリカ野球界は勿論、日米関係にとっても彼は救世主だったと僕は思ってます。大げさじゃなくて。
1995年、2年のストライキでアメリカ野球界は当に疲弊しきっていた。私の仲間もいまさら、野球ね?、ってな感じでどうにか開幕したものの、どこにいってもがらがら。このまま野球はマイナースポーツになっちゃうんじゃないの、という指摘が多かった時代です。
一方野茂投手。近鉄を任意引退してからアメリカで契約するというやり方がグレー、かつわがままだ、ということでそれこそ、日本中から非難されたのです。今じゃ英雄扱いだけど当時の報道をみるとまるで「第2の江川」扱い。野茂はわがままだ、悪しき前例になる、という記事はあちこちにあります。
そして、時代は「微妙な日米関係」にありました。クリントン大統領と日本の関係は当に「微妙」で更に言えば、日本はバブル崩壊によるどん底にあり、日本経済も終わったんじゃないか、最早日本はアメリカにとって最強のパートナーでは有り得ないのではないか、などという指摘があちこちでなされていた訳です。
さて野球。当時日本の野球に対するイメージ・・・日本で何人もメジャーリーガーがプレイしていましたから、彼らのフィードバックによるところが多いのですが・・・一言でいうと「せこい」。
特に投手については sneaky という表現がよく使われていました。これはあまりいい意味ではありませんで、まあ、せこい、がぴったり来ますね。変化球が多く、なかなかストライクを投げず、微妙に交わしてくるピッチングスタイルです。そんな奴がわざわざ海を渡ってきてね?、という雰囲気ですね。
そんないわば逆風だらけの中、野茂投手は飛び出していったのです。マイナー契約、しかも年間たった1000万円!! の契約でした。近鉄時代から野茂マニアだった私は会社を2日休んでそれこそ弾丸ツアーで初登板を見に行きましたよ。今では考えられないくらいがらがらだったのをよく覚えてます。 さて、そのデビュー試合。ジャイアンツ戦、所謂アウェーでのデビューですので敵だらけ。それこそ「日本に帰れ!!」的な野次のなかの登場です・・・
初回からストレートで押し捲り、フォークボールがそれこそドカン!! と音を立てて落ちる。バットがものすごい勢いで回って空振り。もう、最初のバッターからスタジアムは騒然とする訳です。それでもはじめの1?2回は偶然だろ、これ(何せワンバウンドを振ってしまうのでなぜ?? どうして?? という雰囲気です)、というムードが強かったのですが、5回当たりにっはこれはすごいぜ、という空気に変わってくるわけです。
誰だ、スニーキーとか言ってたのは!! こんなピッチャーがいるのか、日本には!!というスタジアムの賞賛の嵐の中で私は日本人としてどれだけ鼻が高かったことか。 それ以来、ホームのドジャースタジアムは当にNOMOを見に来るアメリカ人で一杯になります。
NOMOがアメリカ野球の原点・・・ピッチャーはがんがん三振をとるもんだ、という原点に気づかせたといっていい。野茂投手がDR.K(ドクターK) の称号を得るのにそこからそれほどの時間はかかりませんでした。いつの間にかついた「トルネード投法」というあだ名もアメリカ人が考え付いたもの。その真っ向勝負の投球スタイルと実力は、彼らの「サムライ」のイメージにぴったり来た様で、瞬く間に全米を魅了していきました。
これは間違い。数々のご指摘感謝申し上げます。日本で公募によりつけられた彼のニックネームをドジャースがキャッチコピーにしたのが正解。私のミスです。ばか、ということでこのままにしておきますね。
この一年目に積み上げた奪三振はたしか236で勿論奪三振王に輝きます。「スニーキー」な日本人投手が奪三振王を取るなどと考えた人はだれもいなかったでしょう。 クリントン大統領は「日本の最高の輸出品だ」とまで称するわけですが、現在に至るまで、メジャーで落ちる球がこれだけ広まったのは野茂の投球スタイルが影響していると考えられます。ストレートで追い込んでフォークボールでワンバウンドを振らせる、という発想はそれまでにはメジャーではなかった。
一つ、野茂投手がラッキーだったのはドジャースというチームに入ったことでしょう。トミー・ラソーダといういいマネージャーに恵まれたことは大きかった。(サラリーマンにとっても上司が如何に重要かということですな、これ) 更に様々な人種が集まり、特にアジア系が多いロスアンジェルスがホームだったのもプラスでした。
因みに、これからメジャーを目指す人はこういうこともよく考えて行ったほうがいいと思います。必ずしも日本人に好意的ではない地域も多いですからね、エージェントはそのあたりまでよく考えてアレンジするべきでしょう。家族はそこにすまなきゃならんしね。
まあ、いづれにいせよ、その後の日本人選手の活躍は皆様ご存知の通りです。野茂投手が失敗に終わっていたらこれだけの日本人選手の進出は相当遅れたと思いますね。 我々アメリカを相手に働いていたビジネスマンにとってはどれだけ彼に勇気づけられたか解からない訳でして、今でも我が家にはNOMO!! と書かれたTシャツが残っております。既にパジャマになってしまったトルネードの絵がかかれたNOMOTシャツを眺めながらこれを書いているという訳です。
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29 comments on “NOMO !!”
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ご了承のうえ、ご利用ください。
トルネード投法ってのは近鉄でルーキーだった時に、球団公募でついた名前ですよ。
最終段落の「いづれにいせよ、」は「いずれにせよ」の間違いでしょうか。
ところで僕も「ストライキで閉塞感が漂っているところに野茂が来たのはありがたかった」という話は聞いたことがあります。偉大な選手であったと思います。お疲れ様でした、と言いたい。
日本で近鉄がつけたものですね。
トルネードは公募で決まったんでは有りませんでしたっけ?
イチローが国民栄誉賞候補に挙がった時、「おいおい、野茂だろ??」と巷では言われてましたね。
フォークが大リーグに効果覿面と知らしめたのも、偉業の一つですか?
トルネードって近鉄入団の年(ルーキーイヤー)に公募して決まったと記憶しているのですが。
いずれにせよ、野茂がいなかったら日本人の野球選手の渡米ががこんなに早く、また陸続とあらわれなかったと思います。
日本人のメジャーリーガーで誰が最高の選手かは議論がわかれるとは思いますが、もっともリスペクトされる選手だと思います。
長い間お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
Sneaky !!
と言われる日本に何時なれるのでしょうか?
特に外交は・・・?
スカウトしては<
約束のサラリーを払わぬ実業家を知ってるけれど・・・ぐっちーさんもこの手を喰ってしまったのかなぁ?
95年は、社命でアメリカにて武者修行の最中でした。派遣された会社で日本人は私だけ。拙い英語で一所懸命のコミュニケーションに必死でした。そんなとき、野茂が登場し、彼の話題でアメリカ人とも打ち解けることが出来ました。私にとっても彼にどれだけ勇気づけられたことか。グッチーさん同様、我が家には野茂のペーパーバックがあります。
野茂投手には、ひとこと、お疲れ様と言いたいですね。そして、これからも良い人生を!
そうそう、野茂投手がノーヒット・ノーランを達成したときにWall Street Journal紙が真中の2面の見開きで特集していたことを思い出します。業績を素直に評価する素直な国民性を感じましたね。日本との違いを痛感しました。
当時私も西海岸で仕事をしておりまして、日本人として仲間たちに鼻高々だったことを思い出します。
本当に長い間お疲れ様でした
私もドジャースタジアムで野茂の試合を見ました。
初期の頃の彼のピッチングは本当に凄かったですね。
ストレートが前に飛ばない(笑)、当たってもファールチップ。
そして伝家の宝刀フォークボールでバッタバッタと
三振を取り捲り、まさに手が付けられないといった
感じでした。
朴訥とした口調とは裏腹にしっかりとした考えや信念を持っていて、スタジアムで日の丸を振る日本のファンに苦言を呈したりもしてましたね。
正に名前通り私にとってもヒーローの一人です。
わたしは当時高校3年で、面接試験の練習で、最近印象に残った事は?みたいな質問に、野茂選手の挑戦云々と言ってました^^;とにかくとにかくかっこよかったですよね(^o^)
古い話ですが、関西ローカルのトラトラタイガースというベタな応援番組では、GoGoバファローズというコーナーの中で、同じくネーミングを公募し、当時は『回転ウシ投法!』という名前が採用されたような事をいまだに覚えています。
逆風の中、単身渡米したときもかっこよかった、そして最後までメージャーにこだわり続けてボロボロになるまで投げ抜いた彼は本物の男だと思う。。。
そうですね。当時日本の今までの権威の否定と同じように、サッカー=国際的ですばらしい^スポーツ。
野球=悪い因習ト閉鎖的ナというようなイメージを持たれている中で、我々野球を愛するものタチに最後の希望を与えてくれ、これ以降ネガティブイメージを払拭されてイチロー、WBCとかにつながっていくわけです。
でも出て行く時は悪者扱いでしたが、それに打ち勝って最後は、その野球界のためにガンバッテくれて、最後まで情熱を捨てないで現役にこだわる無口な青年(あえて)は本当の侍(アメリカ的にも)です。
アメリカ人に本物のメジャーを見せてやったようで
本当に誇りでした
そーいや、そうですね
国際化というか、グローバリズムというか、国境を越えて活躍する日本人!、っていう人の最初のイメージです。
いや、勿論、他分野でいろんな人がいらっしゃりますが、何故かノモさんが真っ先に頭に浮かびます。
アメリカ以外でも、こーゆー人が増えてくんですかね?
初めてコメントします。野茂ファンとして書かずにいられず。最初、成績が苦戦した試合もあってこのとき、競馬の武豊氏に「投げなければ、負けない。でも投げなければ負けることさえ出来ない」といったと聞いています。この言葉とオールスターでばたばた三振とるの見ておもわず涙が出そうになったものです。メジャーデビューして1年後、あれだけ酷評していたマスコミが各社共同で大書きの字で「お帰りなさい、NOMO」(キャッチはうろ覚え)みたいな全面広告出していたのを覚えています。あまりの豹変に怒りを覚えたものです。このとき、日本のスポーツメディアはセルジオ越後氏と金子達仁氏の言葉以外は信用せん、と決意した次第です。
まずはお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
僕はメジャーの野球中継がテレビに映るようになってから、アメリカという国をずいぶん身じかに感じるようになりました。そこには映画俳優でない生のアメリカ人がいましたから。
野茂ありがと?。
口べただから解説者は無理っぽいけど、第二の人生もがんばりや?。
いつもお話を興味深く拝見しております。小生の渡米は96年で中西部の田舎でゴツイ米国人に囲まれて仕事をしていましたが、野茂選手の活躍は職場でも話題でいつも勇気づけられていました。その後もいろいろな国を転々としていますが、常に彼の勇姿は誇りであり励みでした。もう見れないのはさびしいですが、本当にお疲れ様でした!
はじめて メジャーでの 活躍を テレビで 見たとき なにか 輝いて見えた
スタジアムへ行けば なお それが 実感できるのかもしれません
そういう野球選手は しばらく でてこないかもしれないね
イチローも たしかに すごいけど うまく いえないが 何かが 違っている
でも もっとも 愚直な日本人だった
日本で やらないのかな?・・
野茂さんを見ると、リスクにビビッたりあきらめたりしてきた自分の人生が恥ずかしいです。勿論優秀なプレイヤーなのですが、リスクを厭わずに徹底してやり、言い訳をしないという生き方が本当に魅力的ですよね。渡米時、『お金(が目的)じゃないんです』とも言ってた気がします。わが国のスポーツ史上でも屈指の豪傑だと思います。あなたに生まれたかった。
ちなみにDR.Kの由来もあるんですよ。
当時球場で野茂が三振を取るとKのプレートをあげるファンがいたんです(関西学院の学生さんたち)それと当時の漫画でスーパードクターKと言うのとが合わさってDR.Kと言うようになったと記憶してます。
野茂ね!私の後輩であると判って
俺も頑張ろうと思ったよね。
アメリカ人には負けん!という
か日本でのバッシングも今では
嘘のようだがあんな時代あったんだよね。
最近のプロ野球選手も
チームより個人成績やトレーニングも
メジャーリーグ用にやったりと
今年メジャー行ったあの選手なんぞ
5年間準備してたもんな。
その間プロ野球なんてどうでもよかったかな
神宮でビール片手に観戦か
国立でカップヌードル食いながら
チェアホーン吹くか
そんな時もあったけ。
日本人に好意的でない場所って、どのあたりでしょう?
思いつくのは、自動車でやりあったデトロイトとかですね。あとは中西部なんか人種差別ひどそう。町で石投げると、カウボーイにあたる地域なんかね。
やっぱり
ぐっちーさんの
野球の話はよいです。
さらに、野茂選手のお話となればなおさら、当時をあまり知らない私も「彼はそんなにすごかったんだ」と感動でした。
野茂選手の生き方、かっこいいですね?。
野茂は本当にカッコいいです。彼は本当に野球が好きだったんだなって思います。選手として下り坂になっても、世間の評価に左右されず、ひたすら野球を続けた姿が本当に感動します。ありがとう野茂。大好きです。
あつい?
こんな時こそ二郎に行きたいのに、行ってる時間が全く取れない。
二郎二郎二郎二郎二郎二郎二郎!!!
禁断症状発生ーーーーーー
今度は功労者と褒め称えるマスコミ。
野茂が単身渡米したときのマスコミ、プロ野球関係者、関口宏の言葉を私は今でも忘れていない。
全て非難とやっかみの言葉であった。
いつも何か新しいことにチャレンジする人間を日本人は許さない。
それは自分がする勇気がないからだ。
しかし、一旦海外で認められると手のひらを返して褒め称え、今度は自分も日本人だからその栄誉の一翼を担っているという顔をする。
なんという根性だろうか?
チャレンジする人間は、困難な道を開く開拓者である。
常に応援する気持ちを持ちたいものだ。
>日本はバブル崩壊によるどん底にあり、日本経済も終わったんじゃないか、最早日本はアメリカにとって最強のパートナーでは有り得ないのではないか、などという指摘があちこちでなされていた訳です。
これって98年頃の話で、野茂が渡った95年頃ってむしろ、
アメリカが復調したって言うのは本当かねとか、
むしろ日本脅威論の名残がまだ残ってた頃ですね。
>野茂投手がDR.K(ドクターK) の称号を得るのにそこからそれほどの時間はかかりませんでした。
野茂がドクターKと呼ばれたのは日本にいた頃ですよ。
三振を取り捲る野茂を応援しに、Kのプラカードを持って
近鉄ファンが応援しに行ってました。
スポーツ誌にもドクターKと書かれてました。
アメリカではむしろそれは浸透しなかったような印象なので、
この通称はアメリカで生まれたわけでも親しまれたわけでもないですよ。