2015/06/22 00:00 | 日本 | コメント(4)
安保法制の合憲性をめぐる議論
新安保法制について、高名な憲法学者が「集団的自衛権」の行使は違憲である、という主張を展開して話題になっていますね。以前の記事(「新安保法制をめぐる議論」)で述べたとおり、私はあまりこの問題に関心がないのですが、少しだけ思うところを述べてみます。
●憲法学の特徴
まず、憲法学は、他の法学とはかなり性格の異なる、とても変わった法分野です。一目見れば分かると思いますが、憲法の条文はわずか103条しかありません。他の法律と比べてとても少ないです。しかも改正されたことがないので、現在の状況を想定していない箇所が沢山あります。その上、解釈の指針となるべき判例も非常に少ない。
このため読み手の自由な思考に委ねられる部分がかなり大きいです。解釈部分を埋めるために読み手がどのようなアプローチを採るかについても、色々な可能性があって、文言、論理といった他の法律にもあてはまる普遍的な手法から、歴史的沿革、哲学、政治思想、倫理観を重視する手法まで、様々です。
憲法学者の中には、哲学者や歴史家のようであったり、あるいはやたらにイデオロギーがかった人やポストモダンの思想家のような人もいますが、これはこうした憲法のもつ特殊な性格に起因するところが大きいのです。
こういうイデオロギーや思想に傾倒する人の言説は、聞いていても今ひとつ心に響かないことが多いです。「憲法学者」といっても、政治家やジャーナリストの語る言論と何も変わらず、単なる主義主張を押しつけているだけ、という印象を与えるからです。それどころか、外交や安保の専門家でも何でもないわけですから、素人の床屋談義のように聞こえて、鼻白んでしまうのです。
●法の論理・整合性
では、安保法制を違憲と主張している憲法学者はどのようなアプローチを採っているのか。長谷部恭男教授は、戦後憲法学の大御所である芦部信喜直系の(元)東大教授であり、現代の日本を代表する憲法学者であることに異論はありません。
私自身も、学生の頃、同教授の講義を受け、主要な著書・論文には目を通しました。現在30代から40代の官僚・政治家には、「憲法といえば長谷部」というイメージを抱く人は多いでしょう。長谷部教授は、もともとは分析哲学の造詣が深く、H. L. A. ハートに代表される英米の分析的法実証主義、法哲学に取り組んでいた方です。政策論や特定の思想・価値よりも論理と実証を重視する、非常にクールでドライ、そして切れ味が鋭い学風という印象があります。
それだけに、今回のような生々しい問題に踏み込むのは少し意外な感もありますが、やはり自身のスタイルを崩すことなく、純粋に論理と整合性を追求するアプローチをとっているように見受けます。こうしたアプローチに徹する長谷部教授の議論にはさすがに専門家ならではの説得力があります。政策論・思想論には立ち入らず、純粋に法律論に絞って論じる限り、違憲説には合理的な根拠があるといえると思います。
●民主主義と自由主義
法律の合憲性の最終判断をするのは最高裁ですから(憲法81条)、この論争を決着させるのは最高裁の判断ということになります。では憲法訴訟になったとき、最高裁が違憲判決を下すかといえば、それはまずあり得ないでしょう。法律論というより、現実論として、最高裁が時の政権の安保政策に真っ向から意を唱えることは想定しがたいです(最高裁の現実路線と官僚主義については別途の記事で述べます)。
ではどうなるかといえば、おそらく最高裁は憲法判断を回避するでしょう。このような政治的な問題はそもそも法的判断になじまないので、「法律上の争訟」(裁判所法3条1項)にあたらないとして、訴えを却下するわけです。
裁判所は訴え却下のロジックを説明する必要はないのですが、法理論的にいえば「統治行為論」を援用することになるでしょう。「統治行為」という言葉自体はどうでもいいのですが、ポイントは、裁判官が判断することが適切な問題ではない、ということです。
少数者の権利を守るという問題であれば、民主主義とは詰まるところ多数者の専制ですから、国会に完全に委ねるわけにはいきません。ここは、自由主義(立憲主義)、すなわち法原理に従って判断する裁判官の出番となります。
では、安保法制をめぐる今回の議論がそうした類の問題なのか。安保政策に直結する問題についていえば、実際のところ、裁判官には専門知識がありません。また、このような統治の根幹に関わる問題について国民に対して責任を負うこともできないでしょう。責任を負うべきは、国民に選ばれた政治家ということになります。
言い方を変えれば、民主主義と自由主義の役割分担の問題であり、民主主義をどこまで信じるのかという問題とも言えます。冒頭で、憲法判例はとても少ないと述べましたが、それは一つにはこうした判断を裁判所が避けている(また、それを見越して憲法訴訟が提起されない)からです。
なお、最近の憲法学においては、外交、軍事、財政といった国家の指導的な統治政策に関わる領域は、立法・行政・司法いずれの権力でもなく、「執政権」という第四の権力が司ると言われます。この領域が統治行為論の適用領域にそのまま当てはまるものと考えられます。これも詳しくは別途の記事で述べます。
結果として、安保法制は、合憲といえるのか分からないが、違憲とはいわれていないので、そのまま適用されることになります。理論的にはどちらが正しいのか分からない状態が残ります。これが行政(執政)の責任を全うさせつつ、同時に司法のメンツをつぶさない(裁判所が国民の信頼を失うことを避ける)という、現実的な選択肢になります。
そういうわけで、あれこれ議論を戦わせるのはいいのですが、私には、結局のところ、この議論自体があまり生産的とは思われず、興味もわかないのです。ただ、私自身、一応法律家のはしくれ(弁護士)でもあり、知的好奇心からフォローはしています。次回以降、もう少し憲法の話を続けたいと思います。
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4 comments on “安保法制の合憲性をめぐる議論”
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だからと言って・・
関白が最高裁長官と同等の法解釈力がある・・と開き直られても困る。
行政裁判を観れば・・裁判官も司法官僚であり、行政の立場だと分かる。判ると言うより・・非常に行政におもねっていて、実質行政が三本の矢の中で一番太い。中央官庁の法務担当は優秀な人材が多い。
立法が一番細いように思える・・そこに法解釈される実態は・・そぞら寒いと感じる。感じるが手をこまねく事は出来る・・腕組みは出来る・・・(笑
開き直るとは・・・?そんなこと絶対にできません。どうも独断的な一般論を展開されているようで、何ともコメントできませんが、安全保障の担当者たちは最後までギリギリのところまで突き詰めていることは指摘しておきます。
生産的でなく不毛な議論をなくし、日本の針路を考えたい場合、純粋に法律論として問題のフレーズの前文を書き換え9条を削除すれば、そこから海外派兵、集団的自衛権などの安保法制問題を国民の意志として、まず考え始めることができるのでしょうか。政治的圧力に対してはそれを確認してからということで。
憲法を書いた人たちがどんな意図で書いたのか。
通常の法律ならまずそこを問うことから議論をスタートさせるはずですが、
それがタブーというか開けてはいけないパンドラの箱になっているような状況で、
憲法の文言だけを読んでその解釈を競う不毛さというものに苛立ちを覚えます。