2021/05/07 18:00 | 選挙 | コメント(1)
自民党の候補者調整 〜 派閥の代理戦争 〜 (7)志帥会 vs. 宏池会 その2(山口3区)前編
■ 安倍氏「菅首相が継続すべきだ」退陣後初出演で交代論をけん制(5/3付毎日新聞)
このゴールデンウィーク中、安倍晋三前総理が久し振りにテレビ番組に出演しました。5月3日は憲法記念日ということで、安倍氏のライフワークでもある憲法改正がメインのテーマでした。
昨年9月の総理辞職後は、「桜を見る会」の前夜に開催された懇親会をめぐって検察の捜査が続いていたこともあってか、安倍氏の動静が報じられることはほとんどありませんでした。しかし、今年3月末に検察が前総理の不起訴を決めたあたりから、少しずつ動きが活発化してきたように見えます。
安倍氏は、先月中旬には、自民党で新たに設立された「脱炭素社会実現と国力維持・向上のための最新型原子力リプレース推進議員連盟」の顧問に就任しています。設立会合では、電力の安定供給に向けて、「原子力と向き合わなければいけないのは厳然たる事実だ」と力強いメッセージを発したりもしています。
昨秋の退陣後初のテレビ出演ということで、話題は憲法以外にも及び、次期総裁選の話題にも触れられました。安倍氏は、総裁の任期満了が近い菅義偉総理について、「一議員として支えることが私の使命だ」と答えています。
永田町では、安倍氏は体調も回復して元気いっぱいで、再々登板を視野に入れているとの憶測も流れています。そのため、この菅総理を「支える」という発言については、菅氏以外の総裁候補を牽制しているという見方も出るくらいです。その一方で、「一度ならず二度も任期途中で総理を辞職した人に三度目があるのか」という懐疑的な意見も根強くあります。
かつて、小泉純一郎元総理は「人生には三つの坂がある。のぼり坂、くだり坂、そしてまさかである」と言いましたが、まさに何が起こるかわからないのが政治の世界です。特に今年は、コロナ対策、東京都議選、オリンピック、総裁選、衆院選と変数が非常に多いので、ちょっとしたことがきっかけでびっくりするようなことが起こる可能性も否定できません。心して注意深く見守りたいと思います。
●自民党の金城湯池
さて、今回は安倍前総理のお膝元でもある山口県のお話です。
山口県は、衆議院の小選挙区が4つ、参議院の定数が2で、国政の議席が合計6つあります。衆議院は1区が高村正大氏、2区が岸信夫氏、3区が河村建夫氏、4区が安倍前総理、参議院が林芳正氏と江島潔氏、と6議席の全てを自民党が占めています。
それどころか、毎回自民党候補が圧勝するため、2012年以降の衆院選で、比例復活当選した野党の議員は1人もいません。これに加え、衆院比例中国ブロック単独選出が2人、参院比例選出2人の計4人の議員が山口県連に籍を置いています。選挙区選出と併せて10人もの国会議員を擁するという、まさに自民党の金城湯池です。
以下の本ブログ記事で、広島が全国屈指の「保守王国」であることをお伝えしましたが、山口における自民党の支配力はそのはるか上を行きます。また、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三と8人もの総理大臣を輩出してもいます。
・「参院広島再選挙」(4/27)
そうした環境にあって、野党の候補を気にしなくてもよいとなると、その闘争心や警戒心は内に向いてしまうのでしょうか。現在、山口3区をめぐって2人の自民党議員が火花を散らしています。河村建夫氏(志帥会)と林芳正氏(宏池会)です。
山口3区は、山口市の一部の他、宇部市、萩市、美祢市などで構成されています。中選挙区の旧山口1区の頃から、河村建夫氏が10回連続で当選しています。
河村氏は、1942年山口県阿武郡三見村(現在の萩市)生まれ。地元の萩高校から慶應義塾大学、西部石油を経て、1971年に、山口県議だった実父の死去にともなう補欠選挙を制して地方政界にデビューしました。
県議を4期務めた後の1990年、田中龍夫氏の後継者として、旧山口1区から衆院選に自民党公認候補として立候補し、初当選を飾ります。当選同期には、石原伸晃氏、岡田克也氏、亀井久興氏、小坂憲次氏、小林興起氏、佐田玄一郎氏、塩谷立氏、中谷元氏、福田康夫氏、古屋圭司氏、細田博之氏、松岡利勝氏、森英介氏、山崎拓氏、山本有二氏など、読者の皆様もメディアで一度は目にされたことがあるであろう顔ぶれが並びます。すでに引退された方や、故人となられた方もいますが、実に錚々たる顔ぶれです。
ちなみに、田中龍夫氏は、陸軍大将、陸軍大臣、貴族院議員、総理大臣などを歴任した田中義一氏の長男です。東京帝国大学卒業後、南満洲鉄道株式会社を経て、終戦の翌年に貴族院議員に。その翌年1947年には山口県の初代公選知事となりました。そして、知事2期目途中の1953年、岸信介氏の誘いで国政に転じます。以後、1990年まで13期の長きにわたって衆議院議員を務めました。
田中氏は、岸氏が率いていた十日会が川島正次郎氏と福田赳夫氏(清和会の源流)とに分かれた後は、福田氏と行動を共にします。内閣官房副長官、総理府総務長官、通産大臣、文部大臣、自民党総務会長などのポストを歴任した福田派の重鎮でした。
●志帥会のなりたちと二階会長の誕生
河村氏は、田中氏との関係で、福田派の流れを汲む安倍派、次いでそれを継承した三塚派に所属していました。三塚派は、運輸大臣、通産大臣、外務大臣、大蔵大臣、自民党政調会長、同幹事長など総理大臣以外の重要ポストをほぼ全部務めた三塚博氏が、安倍晋太郎氏の死後、加藤六月氏と争った末に領袖となった派閥です。今日の本題とは関係がありませんが、加藤六月氏は、現在、菅内閣で官房長官を務める加藤勝信氏の岳父です。また、加藤六月氏の奥様睦子さんと、安倍晋太郎氏の奥様で晋三前総理のお母様である洋子さんは、非常に仲が良いことが知られています。
三塚派は、次第に森喜朗氏と亀井静香氏の主導権争いが激化し、最終的に亀井氏が離脱することになります。この時、河村氏、中川昭一氏、平沼赳夫氏らが亀井氏に追随して三塚派を退会します。そして、伊吹文明氏らが所属していた中曽根派と合体して志帥会を結成したのです。発足当初の会長は村上正邦氏でした。
村上氏は、「参議院のドン」と呼ばれるほどの絶大な影響力を持ち、参議院議員として初めて自民党の派閥の領袖となった人物です。しかし、2000年、KSD事件への関与が取り沙汰され、自民党参議院議員会長を辞任します。国会での証人喚問の要請にも応じましたが、疑惑を払拭できなかったのです。混乱を招いたとして離党し、議員辞職もしますが、程なく受託収賄容疑で逮捕されます。一審二審共に有罪で実刑が確定し、服役もしました。
志帥会は、村上氏から江藤隆美氏、亀井氏、伊吹氏と引き継がれていきました。一時期は衆参併せて60人規模の大派閥だったこともありましたが、2009年の政権交代選挙で所属議員の大量落選の憂き目に遭い、二階派と合併することになりました。これにより、河村氏と二階氏が同じ派閥に身を置くことになったのです。
2012年の総選挙で自民党が与党に復帰し、衆院議長に選出された伊吹会長は、慣例に従って派閥を離脱します。そして、二階氏が会長として志帥会を率いることになったのです。その後の二階氏の大活躍は、これまで本ブログで何度もお伝えして来たとおりです。
河村氏は、第2次森改造内閣と第1次小泉改造内閣で文部科学副大臣に任命され、第1次小泉再改造内閣では文部科学大臣として初入閣しました。続いて第2次小泉内閣でも文部科学大臣を務めた「文教族」の大物議員です。2008年には、同じく文教族である麻生太郎総理から内閣官房長官に任命されています。
一般的な知名度はそれほど高くはないかも知れませんが、経歴からも明らかなように、河村氏は、文教族の実力者として永田町・霞ヶ関界隈ではつとに有名な存在です。また、日韓議連の幹事長を務めるなど議員外交も積極的に行い、政治の様々な局面での活躍が光っています。
また、余談も余談ですが、河村氏は、書道の師範のようなとても美しい字を書かれます。常に携帯しておられる筆ペンでさらさらと文字をしたためられると、「さすが文教族」と妙に感心して見入ってしまう見事さなのです。そして、このレベルの議員に闘争心や空恐ろしいような凄みがないわけは絶対ないはずですが、そんなことを微塵も感じさせないようなかわいらしい雰囲気を漂わせているという、不思議な方でもあります。
しかし、そんな河村氏も当選は既に10回を数え、78歳という年齢もあいまって、10年近く前からは周囲が引退をささやくようになってきています。河村氏は長男の建一氏に継がせたい意向を隠しておらず、自身の秘書にして経験を積ませ、かつ、その存在をアピールすべく地元に張り付けたりもしています。
●行きつ戻りつの世襲制限
自民党は世襲議員の比率が非常に高く、小選挙区選出議員の3割を超えています。閣僚における世襲の割合は更に高く、総理に至っては、この30年間、世襲議員ではない総理がほとんどいません。宮沢喜一氏、橋本龍太郎氏、小渕恵三氏と世襲議員の総理が続き、森喜朗氏でようやく非世襲議員が総理になりました。
しかし、その森氏も父は町長を務めた地方政治家で、政治と全く無縁な家庭の出身ではありません。森氏以降は、小泉純一郎氏、安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏、そしてまた安倍晋三氏と世襲議員が総理になることが続きました。
こうした流れの中で世襲議員への風当たりが強まっていたために、自民党は、2009年の衆院選のマニフェストには、「次の総選挙からは、現職議員の配偶者や3親等以内の親族を同一選挙区で公認・推薦しない」という世襲制限を盛り込みました。
ところが、この総選挙で惨敗した直後には、「都道府県連の公募や予備選で党員の支持が得られる」ことを条件に、世襲候補の公認も容認する方針に転じます。こうして世襲制限は早々に形骸化していきました。
「次の選挙」が見えてきた2011年には、党執行部が世襲制限を事実上撤回してしまいます。そのため、2012年衆院選では、引退する父の後継に息子が納まるという例が相次ぎました。武部勤元幹事長の長男新氏、大野功統元防衛庁長官の息子敬太郎氏、福田康夫元総理の長男達夫氏、中川秀直元幹事長の次男俊直氏などです。
その後も特に制限はかけられず、2014年の衆院選でも加藤紘一氏の三女鮎子氏などの世襲議員が当選しています。2017年の衆院選では、高村正彦氏や保岡興治氏が公示直前に引退を表明し、他の候補を検討する時間もない中で両氏の長男が公認されています。
こうした動きを受けて、党の政治制度改革実行本部は、国政選挙に世襲候補が立候補する場合に公募を義務付ける案をまとめ、安倍総理に提言しています。配偶者や3親等以内の親族が同じ選挙区で党公認候補として立候補する場合、論文の提出や、複数回の面接と街頭演説を行う公募を義務付けるというものです。また、比例代表との重複立候補を認めないことや、現職議員が親族を後継にする場合、任期満了まで一定の期間を空けて引退表明をするよう求める趣旨も盛り込まれています。
しかし、そうは言っても、自民党には世襲議員がたくさんいますし、制限をかけるのはなかなか難しいのが現実です。その一方で、当たり前のように娘や息子に禅譲することは、以前よりは段々難しくなっている面もあります。
選挙に強いしっかりした地盤を持ち、文教族の重鎮で党の要職を務めたことのある河村氏であっても例外ではなく、長男に跡を継がせることにまったく支障がないとは言い切れません。しかも、河村氏はそれ以上に大きな問題を抱えているのです。それは、山口県選出の参議院議員である林芳正氏の存在です。
・「武田大臣が辞任したら?:公認の総務大臣を大胆予想」(3/19)
林氏については、以前に上記の記事で取り上げました。どんな政策でも難なく理解して捌いていく、非常にハイレベルなオールラウンドプレイヤーです。一体、この林氏の何が問題なのか!?
今回は、山口県の国政の歴史、志帥会の成り立ち、世襲制限の動きなどたくさんの情報を詰め込みましたので、ここまでにしておきます。しばし、細かなファクトを味わっていただければ幸いです。次回は、この続きということで、「最強のリリーフ大臣」の異名を持つ林芳正氏について、詳しくお伝えします。
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いろいろあるだろうが、外から、見れば、だれがなろうとも、かんけいない。
国内の視点だけで、見ると書かれているようだがその背後にいる外国への視点が必要ではないか?
どのように考えても政界、教育界、マスコミ、司法界に外国の手先として動いている人がおり、自覚的か無意識か、おめでたいかは別と、いいことはない。
素人が思うが日銀の政策は外国を潤わせるだけではないか?
戦前ゾルゲ事件があった。あれは一部分で、その背後にあったものは戦後も生き残り、今は大きな力を持っているとしか思えない。
日本国としては外交的な選択の余地はない。だったらそれに従って、国政を動かすことだが、幕末のように尊王攘夷を掲げて、内実は俺が親玉になるしか、考えていないことと同じではないか?
攘夷を叫んだ人々はそれが問題ではなく、俺が親分になることだけだったのではないか?
この抗争も一皮むけば、利権争いに過ぎないと思う。背後の利権関係、とくにやくざの動向は大きくものをいう。
コロナは政治家の能力と日本国の仕組みを試している。世襲議員では応対できない.政治家としては他の政治家とは別物であった、田中角栄のような人が必要な時とみている。
個人といいう意識がない世界では、選挙は意味がないと思う。
先はまだまだ長い。