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The Gucci Post [世界情勢・政治・経済金融 × プロフェッショナル]

2014/05/04 15:02  | 昨日の出来事から |  コメント(2)

過去の金融危機から学んだこと(2)


おはようございます。

(前回の続き)

3つ目の危機は、1857年に起こります。 そして、この時の金融危機が、世界的金融危機の第1号となります。
19世紀半ばになると、世界は約10年に一度の割合で起こる小さな金融危機に慣れ、その対応も適切に処理されるようになります。 しかし1857年の危機はそれまでの危機とは大きく違い、危機がその地域に留まらず世界中に広まったのです。 事の発端は、アメリカ中部で株が暴落し、その暴落をきっかけにニューヨーク、そしてリバプール、グラスゴー、そしてロンドンに及びます。 更に、そこから、暴落の連鎖はパリ、ハンブルク、コペンハーゲンやベニスまで広がりました。

この時の金融危機がそれまでの危機と違った大きな理由の一つ目は、この頃にはそれぞれの地域経済がお互いに密接に結び付くようになったことが挙げられます。 当時は、アメリカが貿易赤字で、イギリスが大幅な貿易黒字であり、その構図は現代にアメリカと中国の関係に似ています。 当時のイギリスは、貿易黒字の資金で80百万ドルものアメリカ株式(主に鉄道会社の株式)や債券を買っていました。

そして2つ目の大きな違いの理由は、新しい金融業務の台頭があります。 当時のイギリスには、余剰資金が大量に滞留し、1847年から1857年の僅か10年で預金残高が4倍にまで膨れ上がりました。 これに伴ってこの資金を吸収するこれ新しい金融割引会社やこれらの資金を取り扱う仲介業者が乱立し、各社の競争は熾烈なものになりました。 当時、乱立した「joint bank」は預金者から預かった資金を株や債券に大量に投資していました。 というのも彼らは、イングランド銀行から借用証や手形を担保に1%以下でいくらでも資金を調達する事が出来た為、もし、預金者が大量にお金を引き出しに来ても彼らは、イングランド銀行からいくらでも借りることが出来たのです(支払準備金の概念が確立されていなかった)。

処が、1857年春にアメリカのオハイオ州の鉄道会社の経営危機が表面化してこの会社の株が暴落した事をきっかけに、これに大量に資金をつぎ込んでいたオハイオ生命も経営危機に直面して手元資産を売却してその地域の株式取引所の株価が暴落しました。 この暴落の影響は同年10月13日にウオール ストリートまで広がって全銘柄的に暴落し、これを見た預金者が、銀行に資金を引き出そうとした殺到した処、銀行は彼らの預金引き出しを拒否した為にアメリカの金融システムが崩壊しました。

この時の金融危機の影響はヨーロッパ中にも広まり、11月7日には、イギリス国内に98の支店があり、預金残高が5百万ポンドあったWestern Bank of Scotlandが倒産し、この時に銀行に殺到した預金者の暴動を鎮めるのに軍隊まで出動しました。 

この時の金融危機で特に問題だったのは、手形割引会社のバランス シートの大きさで、当時、資本金10,000ポンドの手形割引会社のバランス シートは900,000ポンドまでバランス シートが膨れ上がっていました(90倍のレバレッジ)。 当然のことながら、これだけレバレッジが大きいと、ちょっとしたきっかけで担保価値が下がると一気に担保不足に陥り、1857年の年の暴落では、僅か3か月で135の手形割引会社が倒産し、42百万ポンドの資金が吹っ飛んでしまいました。

これに懲りたイングランド中銀は、それまでの手形(証書)を差し出せば無尽蔵に資金を手形割引会社に供給する仕組みを改め、個別に相手を審査する体制を整えます(中央銀行の与信管理体制の確立)。 そのおかげで、イギリス国内の銀行各社は貸し出しに慎重になり、その後の50年間のイギリス金融は安定します(英誌エコノミストは、これこそが現代の金融に求められている点の一つであると強調しています)。

4つめの金融危機は1907年に起こります。
20世紀に入って、イギリスの金融システムとアメリカの金融システムに大きな違いが出来ます。 まず、イギリスのイングランド銀行は絶対的な力を持ち、銀行の経営にまで口を挟んで厳しく監督管理していました。 一方で、アメリカは全く反対で、「銀行の経営は個々の銀行の責任でなれるべきである」との考えの下、基本的には自由放任主義が貫かれました。
しかし、1907年の金融危機で、アメリカのそれまでの方針は大きく変わります。

それまでのアメリカは、南北戦争後に銀行が乱立し、その数は22,000行に及び、当時の人口で言えば、4000人に一つの割合で銀行があったことになります。

こうして集まった資金は当時の信託会社へと流れていきました。 この信託会社は1890年代前半に信託会社法によって設立され、主に債券や株式を補完する業務をしていましたが、1907年頃にはよりリスクの高い投資にまで投資対象が広がり、ここに大量に資金が流れ込んだのでした。 と言いますのも、銀行の場合は全資産の内、25%は預金者の預金引き出しに備えて現金を維持しなければならないのに対して(一定の支払準備金の確保)、信託会社は5%の現金(支払準備金)だけでよかったのです。その結果、当時の信託会社の資産は僅か10年で2.5倍にも膨れ上がりました。

加えて、当時のアメリカは年率5%の経済成長を達成する程の好景気に沸き、1904年のバルチモアの大火災や、1906年のサンフランシスコ大震災で一時的に景気が失速しても、それでも2%台の経済成長を達成することが出来ました。

さて、こうした中、Augstos Heinze とCharles Morseのとんでもない詐欺師が現れます。彼らは、大量の資金をだまして借り、その金でUnited Copperの株を買い占めます。ところが、1907年に景気が失速して彼らが買い占めていたUnited Copperの株価が下落した為に、大量にレバレッジをかけて保有していた彼らの株式は一気に大量の含み損を抱えます。 これを何とかしようとして、彼らは自分の保有している銀行を使って株価を吊り上げ(預金者の金で株を買った)、この株価上昇をみた他の多くの信託会社も追随してこの株を買いましたが、結局は失敗に終わったのですが、そのおかげで信託会社の一つKnickerbocker Trustが経営危機に陥ります。 この会社は、1897年には預かり資産は僅か10百万ドルでしたが、1907年には60百万ドルまで膨れ上がり、全米で3番目の信託会社にのし上がりました。

1907年10月22日の朝、この2人の詐欺師が作ったHeinze-Morse金融会社の経営危機を聞きつけた預金者は、Knickerbocker Trustに殺到し、Knickerbocker Trustは最初は8百万ドルの預金引き出しには応じましたが、それ以上の引き出しに対しては、もう支払い能力がなくなった為に預金者の引き出しを拒否し、ここに金融パニックが起こります。 このパニックが他の信託会社にまで広まってアメリカ経済は混乱し、この年のアメリカの経済成長率は1.9%にまで落ち込みました。 と言いますのも、この時の金融危機の煽りを受けて短期金融市場では大幅な資金不足が生し、一時は年利125%まで金利上昇して景気は一気に落ち込んだのです。 この時の金融混乱を鎮静化させたのがJohn Pierpont Morgan(後のJP Morgan創設者)で、彼は、NYの銀行家たちを自分の書斎に集め、25百万ドルの緊急資金を拠出させて事態収拾を図ったのでした。

この時の教訓から、アメリカでも資金不足に対応する為に、国家的に資金を供給する仕組み(National Monetary Commission:連邦準備委員会:現在のFed)が設立されます(当時の金額にして500百万ドルの準備金)。

そして、一連の金融危機の最後の5つ目の金融危機は、それは取りも直さず1929年の世界恐慌です。
1929年までのアメリカは絶好調の極みであり、道路には綺麗な車が走り、建設ラッシュに沸き、雇用も安定して消費も堅調で、フォードは1日に9,000台の新車をフル生産し、1925年の新築住宅は5bnドルの規模にまで拡大していました。

また、1929年当時の銀行システムも健全で、25,000の銀行のバランス シートは60bnドルでしたが、ローン残高は資産全体の60%程度に留まり、常に15%の現金が銀行には用意されていました。また、彼らのバランス シートの内の20%は投資資産でしたが、そのほとんどが国債保有で占められていた為に殆ど問題はありませんでした。

しかし、1920年代に入って、まだできて間もない連邦準備銀行は、ある悩ましい問題に直面していました。 それは、株価と小売価格の動きが反対方向に動いていたのです。 つまり、当時の株式市場は、ラジオやアルミ、更には飛行機などの新しいテクノロジーによって活況を呈していましたが、その一方で、これらの企業の業績は上がらずに配当はどんどん低下していました。 その結果、株価が上昇したにもかかわらず、配当が下がった為に(配当性向が低下した為に)、益々、これらの株価は割高になっていきました。 更に、消費者物価も下落し、ここに至って連邦準備銀行は、「株高を背景に政策金利を引き上げるべきか、消費者物価の下落を理由に政策金利を引き下げるか?」を悩みましたが、1928年にFedは政策金利を引き上げることを決断します。

この判断が致命的な大失敗となり、政策金利を3.5%から5%に引き上げただけでは、当時の株価上昇を抑え込むことが出来ず、株価は1929年の9月まで更に上昇してDow Johnes Indexは381ポイントの歴史的高値をつけます。 その一方で、当時のアメリカを代表する会社の株式は45%も下落していたのです。 更に悪いことに、1929年9月に、海外のロンドン市場でClarence Hatryによる大詐偽事件が発覚して彼は逮捕されたのですが、この逮捕をきっかけにNY市場は暴落し、10月28日と29日の2日間だけで25%下落し、翌月の11月13日までには198ポイントも下落しました(9月高値から僅か2か月で45%の下落)。

悪い事はこれに留まらず、1930年には、アーカンサスや、イリノイ、ミズーリ州を中心に1350の銀行が倒産し、更に1931年にかけて銀行倒産の連鎖はシカゴ、クリーブランド、フィラデルフィアにまで拡大します。 そこへ追い打ちをかけるように、イギリスがポンドの金本位制を廃止した為に、アメリカの輸出業者は大打撃を受け、この金融パニックは、ヨーロッパのオーストリアやドイツに波及しました(英誌エコノミストにはありませんが、読者の皆様もご存じのように日本にも波及しました)。

Fedは、国債を買って資金供給をし、銀行保有国債の担保価値の下落を食い止めようとしましたが、焼け石に水でした。 そして、1933年2月にFedが行った最大にして、かつ極めつけの大失敗は、ネバダ州、アイオワ州、ルイジアナ州の銀行を一時的に閉鎖させるという措置を取り(暴挙を行い)、その後、この措置を全土に広げてここにアメリカの金融機能が完全に停止してしまいました。

一方で、この銀行業務停止期間中に、規制当局は2000以上の銀行を検査して解散させ、新しい法律に沿って全ての銀行を洗いだし、1929年から1933年までの間に11,000もの銀行が倒産もしくは整理しましました。 この結果、当然のことながら金融市場は大幅に縮小し、1933年のマネー サプライは30%も落ち込み、失業率は1929年には3.2%でしたが、1933年には25%まで上昇しました。 その後の株価動向ですが、 NY株は1954年になるまで1929年につけた高値を越えることはありませんでした。

この時の金融危機で、アメリカの金融システムの改革は喫緊の課題となります。
まず、政府は当時の金融規模に3分の1にあたる1bnドルの準備金を用意する一方で、6000以上の銀行を整理解散させました。 また、この時、政府はグラス=スティーガル法が制定し、銀行業務と証券業務を完全に切り離し、当局による銀行と証券に対する検査監督機能が強化されました。

また、1934年にFDIC(Federal deposit Insurance Commission:連邦預金保険委員会)が設立され、この時、預金者の預金の内25,00ドルは、銀行が倒産しても政府が保証する仕組みを作ります。 これによって預金者は銀行に預金をするようになり、金融機能は一気に回復するのですが、その一方で、課題も残しました。 

それは、政府が、銀行が倒産した際に預金の一定金額を保証するという事は、政府がその潜在的な負債(リスク)を背負ったことになり、その負債(リスク)は取りも直さず国民自身が税金という形で負担をしていることに他なりません。 例えば、2008年のシティ バンクとRBSの一時的な国有化の際には、6兆ドルもの国家財政が投入されました(税金が投入されました)。 そして、今世界中の国によるこの潜在的な負債の総額は、2011~2012年時点で630兆ドルにも上ります。

では、こうした潜在的な負債を解消するにはどうしたいいのでしょうか。
まず、それぞれの国は、自国が抱え込んでいる潜在的な負債を国民に公表して国民的議論をすることである。そして、こうした潜在的な国のリスク(公的リスク)を民間のそれぞれの銀行に戻すことであり(民間のリスクに戻すこと)、そのためには預金の支払い保証金額をもっと減額することに他なりません。 アメリカは250,000ドルもの預金の支払いを保証しています(オーストラリアも同様)。 一方で、ヨーロッパや日本は10万ユーロ、1000万円とアメリカやオーストラリアに比べて少額ですが、それでも、こうした潜在的負債(リスク)は、本来的は民間のものであって国のものではありません。

そして、何よりも問題なのは、2008年のリーマン ショックで世界同時金融危機に陥り、その後は民間のリスクや損失を国が財政負担という形で肩代わりすることで今は落ち着きを見せていますが、 これまで述べてきたような「過去の金融危機の歴史から学んだことを次に生かすための施策」が、今回はまだ出てきていません!

アメリカでは「ボルカ―提言」という形で出てきていますが、世界的には、殆どまだ手付かず状態で、そうこうしている内に、次の金融危機が差し迫ってきている可能性があります(何故ならば、金融危機は、この世にお金が存在し続ける限り、その資金の偏在と膨張(バブル)は避けられないからです)。

クロコダイル通信は2019年12月末日をもって連載終了となります。
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2 comments on “過去の金融危機から学んだこと(2)
  1. 夏の空 より
    o(´^`)o ウー

    いや~勉強になります~

    ありがたや、ありがたや…
    ワープロソフトで3回分をまとめて、保存することにしました。(マテ

  2. 夏の空 より
    失礼しました…

    上巻・下巻の2部構成でしたねw 何を読んでるんだか、ゴールデンウィークボケとしかwww

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