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2019/03/16 19:26  | コラム |  コメント(1)

明治維新の疑問75

第一次長州征伐は・・豹変した西郷との密約・密約があったとしか思えない破格条件で・三人の当事者の家老の首と山口城の破壊で・長州藩は逃れられた。

しかし包囲網が解けると・・長州藩は高杉等の過激派が又台頭した。これは長州藩の宿根とも言うべき風土病だった。熱血だけでは藩は救えない。長州藩にも救い主がいた。江戸の講武館で教えていた村田蔵六・大谷益次郎がいた。医者であり・万能の兵法学者でもあった。幕府は何者を手放したか・気付いたら切歯扼腕しただろう。

藩は大村は藩の軍艦壬戌丸売却の為、秘密裏に上海へ渡り・その代金で多量の銃と弾薬を買い込んで来た。大村の軍事才能は・国民兵を実現させた事だ。足軽を主力とした従来型の軍では・兵力的にも難局を乗り切れないと見込んでいた。

「農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、
5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。
さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた」WIKI

この藩民兵に上海で買い込んだ小銃4000丁以上で武装させた・・という説と・
「7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する」WIKI
この二つがある。双方とも正しいのだろう。大村の上海行は秘密裏に行われた工作で・委細は判明されていない。
いずれにせよ・・下関を舞台に武器弾薬の輸入量は・5万両を超えたとされる。勿論最大の武器商人はグラバーだった。

「中公新書 86』には「天保十一年(1840)には89万石余となり、明治初年には98万8千余石」との記述が見られた。
人口については、『藩政一覧』に「人口は6万463人」とあるが、
『藩史大事典 6 中国・四国編』の「全領46万7132人(天保期) 出典:「防長風土注進案」」とは、大きなずれがある。
『幕末の長州 維新志士出現の背景 中公新書 86』には明治政府に藩が届け出たものとして「明治元年(1868) 農商その他114,604戸 人口504,921人」との記述」
レファレンス共同データーベース
転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000128779

このデーターを観れば・・実際には兵力の増強は・・1600名程度ではないだろう。藩を防備するには・・充分過ぎる兵力を得られる人口がわかる。長州を武力で潰すなら・・第一次長州征伐以外なかった。大久保一翁は第二次長州征伐を強硬に反対した。彼の聡明な頭脳と各藩等に張りめぐさせた人脈から・・多くの情報を把握していたのだろう・・・
( ^ω^)

One comment on “明治維新の疑問75
  1. おののののか より:
    戦意

    長州などあれだけ攘夷と騒いで、この変わりよう。そりゃ痛い思いをしているからな。幕府勢は戦意が感じられない。組織としてももう将軍の下、機能しない。ずっと井の中の蛙だったからか。やはり西郷に長州を征伐してもらうしかなかった。その西郷が・・・勝も・・・英国が・・・。

    だから・・一翁は戦争するな・・・( ^ω^)

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