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2019/03/14 19:39  | コラム |  コメント(1)

明治維新の疑問72

西郷に「地ごろ」と足蹴りされた久光は・・大藩に相応しい功績をまず京で挙げた。自藩の過激派多数を寺田屋で上意討ちし・朝廷の信頼を勝ち取った。1000名の藩士も治安に寄与した。
翌年8月・やっと京都守護職を拝受した会津藩主松平容保も・12月に着任する際は・薩摩藩の前例を見倣って・藩士1000名を連れて来た。

朝廷の覚え目出度いとなると・江戸に送る勅使もすんなり決まった。久光は勅使大原重徳の護衛の名の基に・・1000名の藩士を率いて江戸に下向した。外様が幕閣に政を要求する事等・前例が無かったが一橋慶喜を将軍後見職に・春嶽を大老に推挙した。

慶喜は将軍後見職に・春嶽は「政事総裁職」という新しい役に付いた。顧問と言う便利な言葉がなかったから・・新語になったのだろう。兄斉彬が望んで果たせなかった事を・久光は果たした。

天皇の御意向を後ろ盾にして・薩摩の軍事力を誇示する手法で・幕閣は随分苦渋を嘗めさせられただろう。だが・久光は得意満面だった。「地ごろ」が江戸の幕閣を動かしたのだ。有頂天になったとしてもおかしくはない。ただ・好事魔が多し・だった。
京に向かう途中で・・変哲もない村に通りかかった。生麦村である。ここで事件が起きてしまった。

馴れぬ英国商人の騎馬観光客達が・・久光の行列に紛れ込んで列を乱した。これは十分無礼討ちになる所業だった。にしても・・薩摩側も落ち度はあったと思う。何故なら先触れの駕籠が前を行っていた。長い行列だから・・それなりに配慮していた。処が先触れ役は・・前から来る騎馬観光客を・何の注意もせずに・すれ違ってしまった。すこし前では・・英国公使館の館員が・下馬して
久光の行列をやり過ごして。何の問題も起きていない。

供侍に行く手を塞がれた商人達は・・パニック状態になって・久光の行列に割り込んでしまった。
これでは供回りの侍の手落ちになる。当然刀が抜かれた。

京都に帰った久光は・・関白近衛親子に建白書を提出し・「幕府に攘夷を命じてはいけない」旨を
強く申し入れた。申し入れたが・・長州に支配されていた朝廷が聞き入れる事は無かった。8月
23日・久光は失意の内に薩摩に帰国した。

生麦事件に関して・薩摩と英国はもめにもめ・翌年文久3年8月・薩英戦争が始まった。
英艦隊と薩摩藩砲台との砲撃戦だったが・・薩摩側は青銅の旧式砲だったが・英艦隊が装備していた新式のアームストロング砲には・・叶わなかった。砲撃戦が短期間に終了したのは・・薩摩側の奮戦の所為ではなく・・新式のアームストロング砲に・砲撃すると内部で砲弾が破裂する欠陥が表れた。英国側は水や食料不足を挙げているが・数日で・それらが不足するはずが無かった・・・

「薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦「ユーリアラス」に搭載されていた1門が爆発するという事故が起こった」・・・WIKI
( ^ω^)

One comment on “明治維新の疑問72
  1. おののののか より:
    薩摩

    後から思えば生麦事件も天の配剤だな。薩英戦争でも日本海海戦でも、敵の欠陥もあるが、当たるはずのない弾が、いいところに当たっている。やはり薩摩はいろいろ持っていた。しかしいつからか付きが落ちてしまったのかもしれない。笑 維新後、日本は綱渡りだ。これからはまたそういう時代が来るのでは。もう派手に落ちたくはないが、やはりまたどなたかの胸三寸なのかもしれない。

    英国から米国に主が代わっただけで・・関白殿が長州なのが気になる落ちだな。御本人は東北に行って・・先祖が迷惑かけてと謝ったが・
    東北もだが・・日本全土が関係しているのだが・・・
    ( ^ω^)

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