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2019/03/13 10:40  | コラム |  コメント(1)

明治維新の疑問70

諸藩の情勢を探り・下関で久光一行を待てと・西郷は下知されたにも拘わらず・・尊王攘夷派と交わってはならぬという藩命をも無視し・勝手に大阪に入り・過激派と交わって談合を続けた。西郷は物見役を放棄して・・離れ駒になっていた。これは戦場だと打ち首になる重罪だ。

西郷は大阪で捕縛され・海路鹿児島に送られ・沖永良部島へ流刑された。自由だったのは二か月間で・再び島流しの憂目に遭った。これは久光の恩情だったのかも知れない。西郷の行動は・・何所の藩でも切腹ものだ。
側近であった大久保利通の久光への懸命の説得も・効を奏したのだろう。多分・・西郷を死罪にすれば・・公家達との人脈が切れる。延いては斉彬が造った朝廷との繋ぎが切れると・・大久保が懸命に久光を言いくるめたのだろう。でなければ・・遠島の前に首が飛んだ。

一方久光は1000名の兵を率いて上洛した。いくら幕府が落ち目だとは言え・・1000名の軍勢を引き連れての上洛は・許される事ではなかった。しかも江戸まで下がると言うのだから・・謀反の疑いを掛けられても不自然ではなかった。

大名行列は・・享保六年(1721年)の幕府の御触れで・20万石以上は馬上15~20騎・足軽120~130人・人足250~300人・総勢385人~450人と軽減されていた。加賀百万石は多い時・供は4000人になった。人足は現地調達が基本だから・・実態数は低い。これからすると・・1000名の武士は多すぎた。

多すぎたから薩摩藩としても・手を打っていた。多分・大久保あたりでないと出来ない芸の細かさ・手が混んだ策略があった。

①前年文久1年の暮・薩摩江戸藩邸の一つ・芝屋敷が焼失した。状況的に観ると自ら放火したと見做した方が辻褄が合う。その後の薩摩藩の行動を観ると・失火とは言い難い。
②故に藩主(久光の息子)の参勤猶予を幕府に願い出る。参勤に伴う家臣の住まわす屋敷不足が理由に挙げられる。
③幕府は屋敷の再建費用に・2万両貸与する。これはそういう幕府の慣例・儀礼に沿っていた。
④藩主の後見人・久光がお礼を言上する為に・同時に屋敷再建を見守る為・江戸出府を願い出る。
と同時進行の形で・・
⑤薩摩藩は懇意にしている近衛忠房を通じて・朝廷に働きかけ・「率兵上洛」と京滞在の勅命を出させる。
⑥その上で・朝廷が将軍に勅使を立て・護衛の形で久光が江戸に下向する。

このような策を立てられるのは・・大久保利通の頭脳が必要だろう。この大策略を西郷は・見事に邪魔をした事になる。当然大久保から事前にレクチャーされていた筈だが・・西郷は斉彬の仇と信じていたから・・会えば頭に血が昇って切れた・・・
( ^ω^)

One comment on “明治維新の疑問70
  1. おののののか より:
    薩軍上京

    慶喜擁立をつぶされ、暴走する井伊大老に対し、薩摩兵1000を率い上京する前に、保守派の父親に暗殺された斉彬。その遺志を継いで久光が上京したが、ぺルドンさんのいうように中味を兄から聞いていなかった。しかしこれを大久保、西郷と実行しなければならない。やはり大久保という人物は西郷を上手く使わなければならない宿命だったが、征韓論の後、西郷を切ったのは、はたしてそれでよかったのか。その後、大久保は自分もすぐ暗殺されるとわかっていていたのに、わざと警戒を怠ったように見える。自分の立場の重要さを自覚していたはずだが・・・残念だ。

    状況は斉彬の時のほうが厳しかったのでは。既に倒幕の意志を固めていたのかな。しかしこの時点で幕府と衝突したらどうなっていたか。ちょっと想像するのが怖いな。

    一応久光は遅ればせながら目的を達成できたが、それはいろんな意味で時すでに遅しという気がする。リスクは大変大きかったが、斉彬に賭けてみたかった気もする。

    それが歴史の面白さと不可解ささ・・アニメでは語れない・・・
    ( ^ω^)

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