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2019/03/12 10:13  | コラム |  コメント(1)

明治維新の疑問68

大西郷は顔が無い男だった。
西郷隆盛と言えば・・上野の西郷像を思い浮かべる。西郷没後20年あまり経ってから・・建てられた。作者は高村光雲で・・それなりの容貌ではあるが・光雲は本人との面識がない。隆盛の妻は亭主と違うと言ったそうだ。隆盛は浴衣・しかも短めの浴衣を着て・外を歩く人ではなかったと言う意味らしい。それは言えている。西郷は軽輩出と言えども侍だ。侍が外出する際浴衣がけ等・・武士にあるまじき姿で闊歩する筈がない。

奥方の祖父がまだ生きて居る頃・・長火鉢の前に座り・長煙管で煙草を吸っていて・高校生の奥方が膝を崩すと・無言で長煙管でビシリ膝を打たれた。容赦ない痛みだったそうな。そういう家に育てば・・浴衣だけで西郷は散歩を絶対しないだろう。
光雲は職人の家だったから・・武家の嗜みを多分知らなかったのだろう。

大西郷には顔が無いと書いたのは・・あれ程の人物にも拘らず・写真が一枚も残っていない。
大の写真嫌いだった事は手紙などで残っている。大久保利通が洋装で写真を撮って・・西郷に贈ったら・オゾマシイ・二度とするなと癇癪を起した手紙を書いている。明治天皇が西郷の肖像写真を二度催促しているが・西郷は応じなかった。余程の写真嫌いだったのは確かだ。

とはいえ・・政府の顔でもあった西郷隆盛の肖像写真が・一枚もないのはおかしい。
斎藤充功著「消された西郷写真の謎」を読むと・・その理由が推測出来る。著者が東奔西走して調べ上げ・辿り着いた結論は単純だった。

西郷隆盛は西南戦争で政府に天皇に反逆した人物だ。その人物像を残す事は出来ないと・・政府が躍起になって・・西郷の写真を消去して回った。それでは一枚も残っていない筈だ。

ただ専門家の鑑識に触れる西郷らしい人物の写真が・・一枚残っている。
それが「フルベッキ群像写真」だ。これは本物のフェイクではない古写真だ。その中央にマントを羽織った厳つい大柄の武士が混じっている。当時マントを羽織る等大変なハイカラさんだ。
個人としては・・彼が西郷隆盛であって欲しい。明治憲法発布で逆賊の汚名は特赦されたが・・
一枚ぐらい真影が残っていても・歴史に傷は付かないだろう。

西郷に関しては・・どっしりと落ち着いていて・物事に動じない大人物として・定評されている。竜馬も西郷と会って・勝海舟に・小さく打てば小さく・大きく打てば大きく響くと・人物評を述べている。そうかも知れないが・・西郷は定評を含めて・そんな人物ではなかった。龍馬が嘘をついているのではない。小さな事ばかり・・最後まで打たれ続け・大きく打たれる事はなかったのだろう。

西郷隆盛の実像は・・テロリストの冷酷な親分であり・謀略を得手とした。手下を使い攪乱戦術を広め・不味いとなると平然と切り捨てた。
赤報隊事件が彼の性格を顕著に表している。
日本でも・・手配された全学連の委員長を・右翼やヤクザの団体が匿った事件があったが・当時も同様で・西郷もヤクザとの裏の人脈もあった。

ミューヘンオリンピック事件で・・イスラエルの選手達がイスラム過激派に襲われ虐殺され・・
イスラエルメイヤー首相は・・モサドに復讐を命じ・復讐は遂行されたが・その際モサドはフランスのヤクザ組織の協力を得ている。一人生き残ったモサドの隊員が回顧録を書いている。興味深い。

原田伊織著「大西郷という虚像」で・・辛辣に実像に迫っている。
原田説によると・・江戸期の武家とは血を誇る人種・だそうだ。勝海舟の腰の軽さは・・祖父の時代御家人の株を買った検校の家であり・徳川家に対する恩恵は代々染みついていない。西郷の家はたたき上げの足軽の家だから・・島津家の恩義を感じるにしても・俸禄同様薄いとなる。
斉彬だけが西郷にとって・個人的に忠誠を尽くせる相手になっている。
西郷と斉彬の後継者になった久光と・最初から最後まで犬猿の仲だったのは・・斉彬の突然死は久光による毒殺と最後まで・西郷は信じていたらしい。これが因になっているのだろう。

遠島を許され・久光と初対面した西郷は・・礼を述べるどころか・じごろと言ってのけた。
薩摩の方言で・じごろ・とは「地ごろ」田舎者という意味だから・・面罵したに等しい。
唖然としている久光の近習達を・・時勢も心得ず・殿を諫めず何をしているかと痛烈に罵った。
これは久光の無知を笑うに等しい。久光はよく耐えたと思う。軽くて又遠島に出戻りする言動だった。客観的に言えば・・西郷の豪儀というより・粗野と短気・思慮分別の無さを指摘する逸話だと思う。原田説を否定出来ない。
あまつさえ・・九州諸藩の動向を探り・下関で待てと君命を受けながら・勝手に大坂に行った。
これは今でさえ・出張先を勝手に変えて・大阪に出張すれば大事なる。西郷は腹を切らされず・又遠島になった。久光の忍耐強さが頼りの西郷の暴挙だった。西郷を諸に表している・・・
( ^ω^)

One comment on “明治維新の疑問68
  1. おののののか より:
    写真

    フルベッキ群像写真をネットで見たら、山形の蔵から出てきたものとほぼ同じものはある。晩年に近い。グラバースクールの学級写真はなかった。群像もあるがもっと人数が多かった。昔見せてもらったあの写真はなんだったのだろう。笑

    原田説はさもありなん。御家人の株を買ったというのは聞いたことがある。法服貴族ではないが、検校の家はけっこうそういうことがあったのでは。

    久光は父親ではなく、兄斉彬の意志を継ぎたかったが、中身を聞いていなかったのは痛いな。しかし父が兄を毒殺し、異常な状況で国父となり、西郷にじごろ呼ばわりされても薩摩の活動を支えた功労者だ。小松帯刀の存在も大きかったのでは。

    西郷が西南戦争するとき、久光は何か西郷に言ったのだろうか。笑

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