ブログ記者によるオンライン新聞 グッチーポスト

The Gucci Post [ぐっちー編集長の金融・経済を中心としたオピニオンブログ News Paper]

2019/02/16 20:13  | コラム |  コメント(1)

明治維新の疑問㉖

「出貿易」の発想は・・今日の基準から看ても・悪くはない妥協案だった。それが何故採用されなかったのか・・勝に言わせると・上がバカだったからとなる。これは勝海舟の口癖にもなっている。なっているが・・上は・・上の開国派はそう馬鹿ではなかった。

上の開国派からすれば・・長崎の出島案と大差なかった。そして・・ペリーが軍艦を引き連れて来た・砲艦外交開始の後では・・如何にも姑息な案として捉えられたからだろう。
だが・・もし老中首座堀田が・斉昭の「出貿易開国論」を採用していたら・その後起こる国内の深刻な対立は・避けれたかも知れない。ここに開国派の焦りを見て取れる。

だが・・この案は遅すぎた。既にハリスとの間で・日米通商条約が文案まで作られていた。当然ながら・・堀田は斉昭の出貿易案を却下した。しかも・・その説明に配下の川路を差し向けた。斉昭のプライドは傷ついた。御三家筆頭に対して・・配下の奉行程度の小物を寄こすとは・何事かと怒りは爆発した。堀田は斉昭が怒るのは分かっていたから避けたのだろう。

使者の川路に怒りをぶっつけた。
「大体備中守(堀田)は不届きな奴だ。この前も「何か妙案があるなら教えて欲しい」というので・意見を述べたが・さっぱり分からぬと言っていた。もっての外だ。備中守に腹を切らせ・ハリスの首を跳ねよ」
と息巻いた。
流石の川路も・・家老安島に「御意見無きものと承りました」と言い残し退散した。

能吏の川路だから・・堀田よりも上手く理路整然と説明しただろう。だが川路は三河譜代ではない。川路の父親は・・各地を流浪し・御家人の株を買って徒士組になったので・川路聖謨は90俵3人扶持小普請組川路の養子だった。この養子は徐々に出世の階段を登り・勘定奉行にまで昇進したが・斉昭の眼からすれば・小物程度に過ぎなかった。

聖謨は睡眠は僅か2時間しか取らず・未明には槍のしごきを3千本・太棒振り千本・居合刀の素振り300本の鍛錬を欠かさなかった。
斉昭も家中から身分を問わず・人材を登用した藩主だったが・・幕府を譜代でない幕臣が差配するのに・我慢がならなかったのだろう・・としか思えない。

これは幕府の仕組みが・・小碌の譜代大名による官僚専制体制で運営され・御三家と言えども・
幕政に参加する事が出来なかった。斉昭がどんなに能力があり・実力があっても・官僚制度の壁を破る事は出来ない仕組みだった。

斉昭と譜代堀田の間に・・感情的な縺れが起きていたのだろう。だから・・斉昭は断固反対を唱えたのだろう。切歯扼腕したわけだ。斉昭は神君に文句を言うべきで・・幕政をあずかる老中首座に噛みついても・事態を抉らせるだけだった。

尤も斉昭には「怜悧と激情」が交差する殿様だった。太平の世には不釣り合いの御三家だった。
斉昭の人となりを示す例がある。
天保8年・1837年3月・「甲冑謁見式」を行った。藩士達に甲冑を纏わせ・江戸小石川藩邸に集合させ・自らも甲冑を着て軍陣の作法を実施した。流石の水戸藩士も気恥ずかしかったのか・・
「殿はあやしき事をのみ好みたまう」
と怪訝がったが・・1週間後大塩平八郎の乱が起き・殿の先見性に驚いたと言う。

しかし時代は甲冑の時代ではなかった。長州に攻め込んだ幕軍・甲冑組は・・軍服姿の長州兵に手ひどい目にあわされた。斉昭の先見性はその程度のものであった。

外国船を打ち払う強硬な意見書を提出していたが・・打ち払う軍船も・有効な大砲も・幕府も諸藩も持ち合わせていなかった。
しかし斉昭には柔軟性もあった。ペリー艦隊が出現すると・・
「今となっては・・打ち払ってよいとばかりも言えない。出来るだけ多くの人々と相談して・決定するしかないだろう」
と回答し・・日米和親条約締結もやむなし・と柔軟姿勢に転じた。ここが京都の公家と異なった。

それ故・・老中首座阿部正弘を「憤激などは致さざる性にて・・申さば・瓢箪にて鯰を押えるふうの人」と高く評価していた。少なくとも「瓢鯰図」は知っていた。鯰の存在も知って・・オナゴを手当たり次第に泣かせていた。
阿部と斉昭は・・互いに無い処を補い合える絶妙のコンビだった。

しかし・・堀田とは上手く行かなかった。
堀田正睦は・・開明的で進歩派の開国一本鎗の理想主義者だった。調整型の殿様でも老中でもなかつた。斉昭と堀田・ひいては井伊直弼と正面から激突した。これは多くの人材を失い・日本の正常的な開国を遅らせ・・日本を変える前奏曲にもなった・・・
( ^ω^)

One comment on “明治維新の疑問㉖
  1. おののののか より:
    家康の大砲

    家康が大阪城に打ち込んだ長距離砲、あれはどうなったんだろう。大砲をもたらした英国の三浦按針は、グラバーと同じだな。だが英国とは疎遠になった。オランダを選んだ。英国を選んだらどうなったか。大変なことになっていたかもしれない。家康はそれを嗅ぎ分けたのか。

    しかしこんな武器を手にして、300年も鎖国するとは信じられない。結果は幕末に出た。

    大坂方も大筒は持っていて・・新式の元込めタイプだが・旧式の徳川方の方が威力があった。双方・・派手に撃ち合ったとある・・・大砲が実用化された時点で・・日本の築城は時代遅れになった・・・
    ( ^ω^)

コメントを残す

* が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

いただいたコメントは、チェックしたのち公開されますので、すぐには表示されません。
ご了承のうえ、ご利用ください。