2019/02/14 12:10 | コラム | コメント(1)
明治維新の疑問㉒
幕府は・・これら外交交渉と並行して・諸大名にも通商条約締結の是非につき・安政4年・1857年11月から12月にかけ・3回にわたり意見を詰問した。
更に13代将軍家定は・・12月年末・大廊下詰・溜場詰・大広間詰の大名を集め・その場で老中首座堀田が「貿易開始はやむを得ない」と説得・諸大名の同意を求めた。堀田は老中阿部のやり方を踏襲した。この様に阿部・堀田の政権下では・・諮問という形で衆議を決する事が・慣例・常態化していた。
諸大名の答申案は・・殆どが「貿易やむを得ない」であったが・無条件の貿易承認論は少なく・
「貿易は年限を切って試行すべし」とか「外国公使の江戸駐在は反対」とするものが多かった。
徳川斉昭は出貿易論を唱えたが・・堀田に少数意見として却下された。
結論として・・貿易開始はやむを得ないが・朝廷に奏上・朝廷から勅許を得るとなった。雄藩連合は政治・外交の枠外だった朝廷を・・政治の場に引き出し・朝廷の意向を・朝廷を雄藩連合当時の象徴に据えようとした。これは幕府の権威と存在を根底から損ない・勅許がなければ・何事も動けなくしてしまう・自縛に陥るものだった。
老中首座堀田は・・自ら京都に出向き・勅許を得る事とし・ハリスに条約調印予定日を・二か月後
3月5日とした。
老練な外交官であるハリスは・・帝が承諾を拒んだら・どうするのかと彼等に尋ねた。彼等はその想定を考えていなかったらしく・・断固とした態度で・幕府は帝からの反対を受けないと答えた。
私は・・儀式だけの為に調印を延期する必要がどこにあるのかと尋ねた。彼等は・・この厳粛な
国事行為そのものに・価値があると答えた。
私は帝に対し・・荘重に奏上し・帝の最終決定によって・あらゆる物議が直ちに治まると了解した・・とハリスは日記に書いている。
だが・・事態はそんな簡単に動かなかった。堀田以下幕閣は・・朝廷を甘く考えていた。朝廷が幕府に異議を唱える等・・脳裏には皆無だった。幕閣・雄藩連合が・・自ら責任を負うべき重荷を・朝廷にゆだねようとした時から・・幕府の崩壊は始まっていたと言える・・・
( ^ω^)
One comment on “明治維新の疑問㉒”
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義満も信長も秀吉も、勅許を得るなどという感覚があったのかな。
江戸幕府は大政を委任されているわけだから、こんな有様では当事者能力に欠けるな。征夷大将軍は戦争をするためにいるわけなのだから、300年弱も鎖国太平を望むようでは、やはり当事者能力が落ちるのだろう。すべては家康から流れてきている。やはり水戸学もこのあたりが源流だな。ホント信長に怒られるぜよ。
義満は貿易で儲けたくて勝手に明から日本国王に封ぜられている。秀吉は将軍にはなれなかったから関白だが、征服しようとした明から逆に日本国王に任ぜられ激怒している。これが日中関係だ。将軍はこういう事態を避けるための捨て石だ。大政を全うし責任を果たせ。天皇制という空洞を守れ。空洞に過激な精神的な中味・イデオロギーを規定してはいけない。それが日本だ。
やはりこの時点で幕府の寿命は尽きていた。斉彬までそんなことを言ったのだったら、水戸学に汚染されていたな。どうも水戸学の本質は本当の尊皇などではないな。逆に貶めている。これは明治体制の創りにもつながってしまっている。幕府も明治政府も自ら責任を負うべき重荷を朝廷にゆだねてしまった気がする。この事態は既に幕末に現れていたということになる。
だとしても・・15代は・幕府はまだやり方があったと思うな・・・
( ^ω^)