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The Gucci Post [ぐっちー編集長の金融・経済を中心としたオピニオンブログ News Paper]

2019/02/13 12:25  | コラム |  コメント(2)

明治維新の疑問㉑

佐久間象山が・・ハリス提案を真偽のマダラ模様として捉えたと同様・・堀田老中首座以下幕閣は・迷いに迷った。信用出来るか否かの基本的な問題だ。
象山は英国が戦争を仕掛けてくるのは・・気楽に嘘だと言い切れるが・・立場上幕閣となれば・そうはいかない。今なら・・⑥が最優先だと忠告できるが・・最後にハリスが持ってきたから・真偽は紛糾した。
⑥にいたる箇条が虚偽なら・⑥は重きに置けないという・・手順の問題になってしまった。
もしハリスが・・⑥日本は米国と通商し・軍艦や大砲を米国から輸入すべきだ・・を弁証法ではなく・帰納法的に一番最初に置いたら・話は案外早く纏まった可能性がある。

当然・・ハリスへの回答は遅れた。長引いた。
ハリスは怒り心頭・・
「余の通商条約締結の希望提言してから・・29日を経過せるにも拘わらず・いまだ一片の返書も与えられず・余は斯かる無責任を忍ぶこと能わざるなり。
日本政府・もし鎖国の墨守を選ばば・余は断然旗幟を徹して帰国せんのみ。
されば平和の使者に代わって来らんものは・・幾体の軍艦ならん。日本の迷夢を覚醒せんものは・
砲煙弾雨のほかはあらじ」
とペリー提督並みに恫喝した。艦隊がないだけ・・威力は無かったが・米国の歯はむき出しになった。

それにしても・・この程度のたった6条の申し入れに対し・・返答が29日経っても決まらなかったのは・堀田は阿部よりも能力が低いと見做される。決断しにくい性質・体質があったのだろう。
島津斉昭の眼力は正しかったが・・
井伊大老が暗殺され・・日本全体が震撼した前に・軍を率いて井伊を失脚させる為・京に登るという大決断をしたのは・・斉昭だったその大決断故に・・斉昭は薩摩で毒殺された。1858年7月16日。

毒殺と明言はされていないが・・毒殺以外考えられなかった。
そんな都合よく藩主が・天命で頓死する事はない。父親が命を下したと伝えられている。
斉昭の跡目を継いだのは・・写真を見る限り・頭が悪そうな久光で・大田舎者その者だった西郷から・・田舎者とあしざまに言われた殿様だった。いや・・あれはあれで・賢君だったという弁護はあるにしても。
斉昭が生きていたら・・薩摩政権が出来たにせよ・・明治政府とは異なる政権になった可能性が高い。

ハリスの激怒に驚愕した堀田は・・幕吏で最も俊英で・外国通でもある目付・岩瀬忠震・下田奉行・井上清直に直ぐ全権を委ね・条約締結交渉に当たらせた。岩瀬は積極的開国論者だった。
目付は若年寄配下で4名いたが・役碌は1000石ついた。利け者が選ばれる幕府の登竜門だった。
当時・岩瀬配下だった福地源一郎が・・
「非開国の群議の間に立ちて・断然・世界の通義を主張し・
「貿易条約は欧米諸国の望みに応じて・これを締結せざるべからず・しからざれば・日本は孤立して国運もついに危うし」
と公言し・以て閣議を動かしたるは岩瀬なり。当時・幕吏中にて毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは・岩瀬一人にして・堀田閣老をしてその所信を決断せしめたのも・岩瀬に外ならざりし」
と証言している。福地も薩長に対し決戦を主張した一人だった。
岩瀬はハリスに・・
「詩文は使節として米国に行きたい」
と語っていた。
ハリスも・・
「岩瀬は・・余を閉口せしめることもありき。かかる全権を得たりしは・・日本の幸福なりき」
と書き残し・・高く評価していた。

高瀬とハリスの交渉は13回にわたった。
この間・ハリスは威嚇したり・説得したり・硬軟混ぜての駆け引きを展開・遂に安政5年・1858年1月・日米通商条約案14ヶ条・貿易章程7則を成立させた。
岩瀬は抜け目なく・条約案に「軍用の諸物は日本役所の外に売るべからず」と制約を付け・・
武器の自由販売を禁じた・・・
( ^ω^)

2 comments on “明治維新の疑問㉑
  1. おののののか より:
    斉彬

    やはり、阿部老中に隠居させられた父親によって殺されたか。私の希望は斉彬が生きていたら実現したかもしれない、その薩摩政権ですね。

    阿部・斉彬という希望の星が消えた以上、次善の次善の策を勝にやってもらうしかないですね。やはり希望の星も、幕府も寿命だった気がするな。それはあの家康がそう創ったんだから仕方ない。勝も幕臣もわかっていたのでは。せめて優秀な官の人材をもっと生かしたかった。あのテロリスト長州藩など除外しておきたかった。

    斉昭は逸材だったな・・勝は斉昭に惚れて・薩摩に前のめりした・・・
    ( ^ω^)

  2. おののののか より:
    久光

    久光は妾腹かな。国父という形をとったのは複雑な状況だったのだろう。父が、兄とその息子を殺した疑いがあるのだから。阿部老中・斉彬亡き後、流れはもう倒幕に傾くしかないが、西郷・大久保に大仕事をやらせて、維新をなしとげ、廃藩置県も呑んだのだから、立派に役割を果たしてくれた賢君と深く感謝しなければならないな。兄に育てらた西郷とはいろいろあったが。

    たしか西郷・大久保よりずっと長生きしたはずだから、回想録のようなものを読んでみたいな。本音を読みたい。よく自制した人生だったのでは。

    斉昭と比較するからだと言う説がある・・・
    ( ^ω^)

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