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2019/02/11 13:33  | コラム |  コメント(2)

明治維新の疑問⑲

ペリー提督の砲艦外交・厚かましい・横暴とも言える恫喝に・・幕閣は憤怒に近い対応を素早く実行した。まず長崎奉行水野は・・オランダ海軍教師団を招聘し・長崎に海軍伝習書を設立した。海軍士官養成学校だ。ファビウス中佐の意見書に従った。ペリー提督の再来日は1854年だから・・電光石火の働きだった。

「長崎海軍伝習所は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された
併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった」WIKI

海軍伝習所は・・安政2年10月22日・1855年12月1日・日蘭和親条約が締結されると同時に開設された。開所式には・・後にオランダ海軍大臣になる教師団長ライケン大尉を迎えて・阿部に抜擢された初代所長永井尚志が執り行った。以来明治以降・・帝国海軍兵学校は・12月1日を入校日として・永くオランダとの友情を記念した。
この特色は・・幕臣だけではなく・雄藩にも門戸を開いた。薩摩藩・佐賀藩・越前藩・長州藩・肥後藩・津藩などの藩士も入学した。

第一期生として・・勝海舟・浦賀奉行所与力・中島三郎助の名がある。勝海舟は・・ペリー提督来日時の上申書が認められ・御家人40俵から蕃書調所80俵に加増され・長崎海軍伝習生から・やがて海軍奉行になった。
与力の中島三郎助は・・ペリー来航の際は・仏語で退去命令を行った。洋学を追求した中島は・・榎本武揚と共に函館で戦い戦死した。血に染まった軍服のポケットには・・英語辞書が入っていた。戦死の直前まで英語の勉強をしていた。

老中首座阿部の改革は・・幕府の為だけではなく・明治維新を切り開く有能な人材育成にも役立った。ただ阿部は過労で39歳で死去した。

次に狂ったように・・幕府は軍艦を買い入れた。

①安政5年・1858年・ヴィクトリア英女王から将軍に贈られた王室ヨットを・軍艦に改造。
②慶応元年・1865年・米国から富士山丸を24万ドルで購入。
③慶応2年・1866年・プロシヤから中古軍艦回天を18万ドルで購入。
④慶応3年・1867年・石川島造船所で・我が国初の国産蒸気軍艦千代田完成。
⑤同年・オランダからペリー艦隊旗艦サスケハナを凌ぐ開陽丸を40万ドルで購入。
⑥同年・米国から南軍軍艦ストーン・ウォールを40万ドルで購入・甲鉄と改名。

幕府は慶応3年・1867年までに・合計8艦・7981トン・搭載砲88門・総力を挙げ海軍を創建した。
ペリー提督の東洋艦隊7艦・10854トン・搭載砲120門の凡そ7割。軍艦購入費は142万ドル。
幕府は14年で死力を尽くし米国東洋艦隊に対し・・約7割の海軍を整備した。

7割で良しとしたのは・・太平洋を渡ってくるまでに・3割は故障か破損するであろうという憶測・前提で考えられた。しかとした根拠はない数字だったが・・対米7割の数字は・
幕府のトラウマになり・・明治政府の帝国海軍にも・根深く引き継がれた。神秘の数字だった。

大正11年・1922年・ワシントン会議で対米6割に削られた日本海軍は・パニックになった。昭和5年ロンドン軍縮会議でも・・対米7割の壁を破れず・対米6.975割を飲んだ浜口首相は・・激しい世論の嵐に晒され・凶弾に倒れた。
ペリー提督・・部下から熊親父と陰口たたかれたアル中・痛風・リューマチの提督が日本に残した遺産は・・真に大きな痛いモノだった・。提督と日本では呼んでいるが・・海軍大佐だった・・・
( ^ω^)

2 comments on “明治維新の疑問⑲
  1. itea より:
    軍縮

    激しい世論の嵐に晒され・凶弾に倒れた。
    というのは今ならモリカケとか煽る感じなのでしょうか。
    昔から日本のマスコミは低レベルだと言われてきて今も残念な感じ。

    ワシントン会議の結果赤城加賀が生まれたのは良かったのか悪かったのか。
    いずれにせよ空母の開発は手探りだったはずで当時の技術者はワクワクしてたのか
    とか思ったが、実際は継ぎ接ぎだらけで適当に作った感が…。
    でもそれが現代で言うところのベータ版みたいな感じで良い結果にはなった。

    老中阿部の近代化がそのまま進めばちがったのかもしれないが、
    過労で死んだとか日本人らしいのは昔からなのか?
    夏で暑かったから心不全とかであってほしい笑

    iteaさん
    誰が・・3割のロスという仮説を立てたんだ・?!
    案外・・勝かも知れないぜ・・とすると昭和まで彼奴は日本を引きずったといえるな・・太平洋の往復は体に堪えたのだろう・・・
    ( ^ω^)

  2. おののののか より:
    阿部老中は対応したが・・・

    確かに、先に近代化し人材を育てているのは幕府だ。雄藩にも門戸を開いて。しかも阿部老中というトップが。外様の薩摩藩の斉彬も、父親を隠居させ、登用した。広く意見を聞き和親条約を結んで開国した。

    ここまで辿り着いて、この流れがなぜ進まなかったんでしょうね。まあ普通は攘夷となる場合が多いが 、それは幕府のトップではなかった。にもかかわらずぺルドンさんの願いは叶わなかった。体が頭に付いていけなかった。

    攘夷をかざしてわめいていた尊王攘夷が、実際やってみて打ちのめされて開国に転じたのは恥ずかしいな。さんざん攘夷で国内同士討ちをやった末に。攘夷派は阿部老中に顔向けできないな。しかもあまりにも徳川に借りがある勝ち方で後味悪い。

    歴史的にはよくあるパターンなのかもしれない・・・制度の転換として封建制の廃止・武士の廃業という観点で見れば、後から正当化できるだろうか。徳川には出来なかったという前提だが。国際環境が起点だった。

    封建制こそ近代化へのステップという説もある。だが日本はアジアだから、民衆の革命ではなかった。ドイツを手本としたが、天皇はドイツ皇帝とはだいぶ違ったものだった。気負い過ぎて現人神になってしまった。摩訶不思議なめずらしい革命だった。たしかハンチントンは独自文明として、最後に日本をカウントしていた気がする。

    井伊大老が出しゃばった挙句の果てに・自滅したのは・・一橋派慶喜の父親が水戸の斉昭で・大奥使いの局やお女中を斉昭に強姦され続けた大奥の恨み骨髄が・・紀州の徳川慶福を押しあげ・・井伊がこれに飛びついた。こんな処で・肝心なところで・犯された女の恨みが政治を動かした。斉昭は恥じるべきだな・・・
    ( ^ω^)

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