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2019/02/10 14:43  | コラム |  コメント(2)

明治維新の疑問⑰

ペリー来航前に行なわれた阿部の改革等

江戸の守備を強化する為、品川や浦賀等に砲台を建築。
軍事訓練の為、空砲という条件で鉄砲の訓練、並びに実弾で砲術訓練を諸藩に許可。

嘉永4年(1851年)、南町奉行遠山景元に命じて株仲間を再興。
又、同年に景元・寺社奉行脇坂安宅・勘定奉行池田頼方に命じて恩赦に関する公式な法令(赦律)を制定することを命じた。

薩摩藩の御家騒動(お由羅騒動)に介入し、島津斉興を隠居させて開明派と評されていた島津斉彬を藩主とする。

徳川斉昭の謹慎を解除し、幕政に参与させる等、実力のある外様大名の幕政参与を積極的に認める等(安政の改革以前から、阿部は既に島津斉彬・鍋島直正・伊達宗城等と交流を持ち、意見を交わしていた)WIKI

安政の改革

嘉永6年(1853年)6月のペリー来航の際、阿部は国家の一大事として親藩・譜代・外様を問わずに諸大名をはじめ、旗本さらには庶民にも意見を求める。直後に第12代将軍・徳川家慶が病死し、徳川家定が第13代将軍になると、家定が病弱だったことも手伝って阿部は幕政の総責任者となり、安政の改革を断行する。

嘉永7年(1854年)1月にペリーが再来航し、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に対して大船建造を解禁して海防の強化を命じる。また人材の育成や、国家としての軍事及び外交研究機関として講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所を設置した。

また江川英龍、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志の人材を海防掛(海岸防禦御用掛)へ登用し、幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせていた。

安政2年(1855年)10月、阿部は老中首座の地位を堀田正睦に譲る。
但しこれは幕府内部における開国派と鎖国派の争いで阿部が孤立することを恐れての処置であり、尚も実権は阿部にあり、改革は続行された。
この頃から第14代の将軍継嗣問題も表面化し、阿部は人物・識見等から一橋派を支持。
安政4年(1857年)6月、阿部は病死する。WIKI

阿部の早すぎる死は・・幕府の転落を早めた。早めたが・家柄・身分を問わない能力による人材抜擢は・幕府の土台になると同時に・・明治新政府への官吏登用にも引き継がれるものだった。

蕃書調所1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。今では東大の前身とみなされている。
1862年(文久2年)には学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。同年6月15日(5月18日)、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌1863年10月11日(文久3年8月29日)、「開成所」と改称された。WIKI

語学はオランダ語が始まりだったが・・英語・仏語・ドイツ語も加わった。
要するに・・西洋の知識万象を取り入れる学校だった。

帰郷したジョン・万次郎は・・直参旗本・軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。

阿部が急務としたのは・・海防だった。
江川太郎左衛門英龍の指導の基・江戸湾に昼夜兼行でお台場が建設され・・大阪湾や函館にも砲台が建造された。大砲や小銃製造の為・・伊豆韮山に反射炉が建設され・江戸湯島にも鋳砲場が立てられた。
更に幕府海軍の創設に取り組み・・ペリー提督初来日から2週間後・嘉永6年・1853年6月19日には・長崎奉行水野忠徳にオランダからの軍艦購入交渉を命じている。
奉行水野は・・帆走軍艦と蒸気商船の2隻をオランダに発注した。迅速である。

水野は300俵取だったが・・火付盗賊改めから浦賀奉行・阿部から長崎奉行に抜擢されていた。
嘉永7年・1854年には・・奉行水野から質問されていた回答が・・オランダ海軍ファビウス中佐から「海軍建設の意見書」が提出された。
この意見書を読み・・阿部は洋式海軍の創設を決意した。

「①世界の軍艦は外輪式から・・スクリュー式に移っている。
②船体は木造から・・鉄製に移っている。
③海軍には・・造船所と海軍士官養成学校が必須である。

この骨子で・・幕府海軍は走り出した・・・( ^ω^)

2 comments on “明治維新の疑問⑰
  1. itea より:
    なるほど

    ペルドンさんの意図する話から脱線しますが、日本の海軍偏重の歴史
    はこの辺りから始まったのですね。
    ここから90年後空母対空母の世界最大規模の海戦を
    遂行したのだから凄い。内実はショボかったから負けるべくして負けたけど。

    もっとも龍馬が生きてたらリベラル寄りになって人命を重視した
    ダメージコントロールの開発が進んだかもしれないし、
    軍の年功序列の指揮系統が能力重視になっていたかもしれないが。

    iteaさん

    今書いている⑱は・・その続きで面白いのです・・・
    ( ^ω^)

  2. おののののか より:
    if論

    ぺルドンさんの希望は、阿部老中があと15年、幕府を運営したらかなえられる可能性があったか。30代の死は相当の心労だろう。その場合慶喜で良かったのでは。しばらく、ちょんまげ・帯刀のままだったかな。笑 

    勝は重用されただろうか。幕府内の開国派・攘夷派の争いはあっただろう。直弼が出てこなければ水戸もおとなしかったか。

    当然、外交戦略も違い、日清日露戦はなかったかもしれない。はたして米英仏が幕府をどう扱ったかはよく想像できない。大政奉還後では手遅れだったのでは。このケースしかなかった気がする。

    井伊直弼の大老は・・余計な出番で・明らかに田舎大名だった。ここでも狂ってしまった。又米国は市民戦争の疲弊で・・日本に食い込むタイミングがズレた・・・( ^ω^)

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