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2019/02/08 16:03  | コラム |  コメント(3)

明治維新の疑問⑮

水戸の徳川斉昭は・・強靭な意志と水戸学で理論武装し・尊王攘夷の過激な本家となったが・徳川十五代将軍を結果的に受け継いだ・七男坊慶喜は・・女狂いは父親からそこそこ引き継ぎ・聡明さもあったが・肝心な意志の強靭さを引き継がなかった。これが徳川を滅ぼし・・日本に塗炭の苦渋を嘗めさす遠因になった。

歴史を遊歩すると・・歴史の皮肉を感じざるを得ない。天下泰平な世であったら・慶喜も名君・名将軍で・子供を多く残し・安楽に終えただろう。
だが・・そうは問屋が卸さない国際情勢が・風雲・急を告げ・徳川270年の清算を一気に求められた。

敵対した大老井伊直弼を・・水戸浪士17名が桜田門で切り込んだのは・およそ幕府政治で考えられない程・乱世を物語った。末世に値した。この襲撃を成功させてもさせなかっても・・幕府の屋台骨を揺るがす自覚に欠けていた。冷静な計算を忘れさす程・密勅に対する追及は・井伊大老の情け容赦もない・水戸家に対する過酷極まりない処分にあった。

「安政7年(1860年)1月15日、幕閣は江戸城へ登った水戸藩主・徳川慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた。慶篤は返納に肯定的であったが、水戸藩内の返納反対論者の勢いは強く、幕府に猶予を願い出続けた」WIKI

参加を予定された薩摩は・・直前離反し・水戸浪士だけになってしまった。薩摩は怜悧でもあった。これでは・・水戸徳川が率先して・・大老を暗殺した事になってしまった。
暗殺され・・首を取られた直弼も・赤備えでならした藩祖とは異なり・・いくら積雪・雪降りの中であったとしても・総勢60余名・26名の供回りが居たのだから・藩主の首まで取られる失態は屈辱以外無かった。

警備の打ち合わせも無かったのだろう。大老が襲われる等・眼中になかった。上屋敷まで4・500メートル程度・・加勢を呼ぶ時間はあった筈だ。手近の大名屋敷に・・助人を求める余裕もあった筈だ。大名達が動かなかったのは・・大老直弼の評判が悪かった所為もあるのでは・?!
いずれにせよ・・この変は幕府の寿命の身近さを・全国的披露する一大先駆けになった。

水戸藩は徹底的に究明され・多くの犠牲者をだしたが・・彦根藩も供回り一同の家来は・傷があっても無傷であっても・切腹を命じられた。藩も35万石から25万石に減俸された。両家にとって・・
痛手だったが・・一番深手を負ったのは幕府だった。ここから幕府への信頼は・・たがが緩んだと言える。明治維新まで8年足らずだった・・・( ^ω^)

3 comments on “明治維新の疑問⑮
  1. 恵美 より:
    無限ループと無限の可能性

    魔界であれ天界であれ神々さまでさえ変えられないない。
    あれ程、無限ループだのといっても
    本物の想いにさえ気づかづに・・・無限の可能性
    単なる呪いでもないだろ。

    業魔なり霊応力、天界というワードが。
    テイルズRPGやっていてそんな想いに駆られるのは私だけ?

    恵美さん・・どう頭をひねっても・頭脳を回転させても・このコメントは明治維新の疑問⑮と関係が無いように思えるけれど・・
    その疑問に対する解答は知っている。
    千日回峰を二度行った酒井阿闍梨は・・己の心の中にある仏や神と出会うのが修行とわかったと書き残してい。自分の心の中にある仏や神と出会うのは・・簡単には往かない。にじり寄る毎日があると思う。僕は放棄しているけれど・・・( ^ω^)

  2. 恵美 より:
    そのような想いに駆られるのですが。

    テイルズ面白いですよ!

    ペルドンさんは無限ループ派ですね。
    そうですね・・・九分九里嘘と申されいましたから神示にも。

    九分九厘なら一厘残っている・・少し歴史の勉強してみるか・・・
    ( ^ω^)

  3. おののののか より:
    水戸学とは

    武家政権の始まり清盛の時代から、朝廷とは緊張がある。頼朝、尊氏もそうだ。義満など天皇家を乗っ取ろうとしたとか。明に朝貢もした。まあ貿易をするには英国もやったんだろうが。

    家康の時はもうそれほどではなく、それなりに朝廷を扱ったが、それにしても水戸の勤皇学は何なんですかね。あそこまで水戸が入れあげたのも解せない。家康死後興ったように見えるが、何か言い含められていたのだろうか。

    そりゃ信長に怒られそうな時代遅れの封建制の完成を行った家康の、封建制には都合の良いものでもあったと思うから野放しだったのかもしれないが。御三家最格下の永世副将軍という地位も気になる。結局その副将軍のはずの水戸が将軍になり、幕府に引導を渡した。

    光圀が始めた水戸学は穏健だったが・・幕末の水戸学は・会沢正志斎が指導する頃・観念論から実践論に変わった。徳川幕府には300諸侯がいるから・統一国家ではない。皇室を戴いて・国家統合の象徴とし・300諸侯が団結し・外夷とは対峙しようと主張した。これが過激な思想に発展していった。水戸藩は内部分裂を起こし・・幕末のヘモゲニーを握れなかった・・・まぁ幕府の足を引っ張ったのは確かだな・・・

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