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The Gucci Post [ぐっちー編集長の金融・経済を中心としたオピニオンブログ News Paper]

2018/09/14 11:01  | コラム |  コメント(2)

何故かシェイクスピァ②

では天才戯曲家シェイクスピァーの舞台俳優としての評判は・?
となると・・
「俳優としてのシェイクスピァーは・・まぁまぁの程度で・17世紀になる頃には殆ど出演を止めていたが・毎年劇作を二編ずつ書いて・後援者も多ければ収入も大きく・劇壇の一勢力をなし・そろそろ
故郷ストラットフォードへ・買い込んだ地所に引っ込んで落ち着こうとしていた」

偉大なる作家も・・偉大なる俳優にはなれなかった様子だ。
当時の入場料は1ペンスで・2ペンス払えばベンチに座れた。3ペンス払えばスタンドの上の席になる。この入場料は庶民にとっては決して安い金額ではなかった。
安い金額ではなかったが・・
「ラッパが鳴って下手な芝居が始まると・・たちまち見物が1000人も集まった。もしもこれが説教だったら・ベルを3時間鳴らしても100人とは集まるまい」
という皮肉な当時の日記が残っている。つまり大金になった。

「市外の新築劇場に見物に行くと言う事は・・やや冒険じみた面もあって・目先の変わった遠足に近かった。街はずれだから売春宿も古い下宿屋もあり・・勤め先を逃げ出した年期奉公もいれば・借金取りから追い回される文無しもいた。
劇場の中でいい席を奪い合ったり・リンゴやクルミを買って食べたり・ビール買って飲んだりしていた」

しかし意外な事にシェイクスピァ―は
「劇作家仲間からは尊敬されていたが・・世間の人気はあまり高くなかったらしい。
いろいろ大袈裟な言葉を並べて・・人を褒めるのが流行した時代なのに・記録に残るシェイクスピァ―への言及は・簡単で微温的なのである。狭い劇場関係に知られていただけで・・広い世間には名が通っていなかったらしい」

意外なる考証ではある。
19世紀に生きたジョン・スぺディングは・・フランシス・ベーコンの伝記を書く為・(シェイクスピァ―の名前でベーコンが書いたという説がある)記録を詳しく調査していた。

「ジョン・チャンバレンからダドレー・カールトン宛の手紙は・・1598年から1623年まで長期にわたって保存されており・月々のニュースや宮廷・市内・教会・書店関係の情報等が豊富に・
特に宮廷で催された仮面劇は・作者・俳優・プロット・演技の出来栄え・観客の反応まで詳しく書いてあるが・・シェイクスピァ―の名はどう探しても全く発見出来ない」

これは謎だ。大いなる謎ではある。
エリザベス処女王は在位45年に及び処女を張ったが・・演劇界のパトロンとしても君臨した。
「俳優を擁護したり・・当時の脚本の廃滅を防いだり・演劇の水準は目覚ましく向上した」
にも拘わらず・・宮廷の催し物にはシェクスピァーの名が現れない。

これだけの資料だけで判断すると・・シェイクスピァーの作品は・女王の好みに合わなかったのではないかと言う疑いが現れる。女王陛下は風刺はお嫌いだったらしい。
というのも・・
即位間もない頃・宮廷で演じられている劇の真っ最中・突然中止を命じられ・やむなく役者達は仮面を付け・即興的に舞踏したと記録がある。

女王は名高い・・1572年エリザベス女王法令第14号第5項を発令した。

「剣術使い・熊使い・インタルード(貴族達の食事の合間に催す短い劇)役者・又はミンストレル
(吟遊詩人等)の身分にして・如何なる領主にも所属せず・又領主以上の如何なる名士にも所属せず・少なくとも二名以上の裁判官の許可書を所有せずして各地を放浪する者は・総て悪人・浮浪人もしくは病弱又は不具にあらざる乞食と看做し・初犯は厳重なる鞭打ち刑に処し・周囲凡そ1センチの鉄棒を熱して右耳の耳朶を貫通するものとす」

この法令が悪法だったか役者を保護する為の女王の好意だったか・・判断に苦しむ処だったが・
「新教徒は大喜びで・役者はすべて悪党だと法律で決まったと触れ歩いた」・・・
( ^ω^)

2 comments on “何故かシェイクスピァ②
  1. おののののか より:
    清教徒との関係は?

    蜷川幸雄は性格俳優で上手すぎて鼻に付いた。演出家で丁度いいのでは。シェークスピアの演出にこだわっていた。

    新築劇場にはオペラと同じく、演目というより行くことに意義があったのでは。まあ教会だって昔はそうだったのでは。他に行くところはない。民衆の間に名が通っていなくても不思議ではない。それにあの難解な名セリフ、最初から民衆のレベルでウケタんだろうか。じわじわすごみが浸透したのでは。

    現代ではすごい芸術になってしまった。あんな中世の香プンプンなのに。英国政界でもいまだに上演中。英国は近代を切り開いたイメージなのに、米独仏より遅れているように見える。あんな憲法下で運用が上手かったんだろうか。体質が変わっていないということか。笑

    1572年頃と言えば、大陸では宗教戦争をやりつくし、ボダンの主権概念が出て来ている。なのに英国はシェークスピア劇。だが主権など教えられなくても、ノルマン征服以降、英征服王朝はずっと国内外で国家主権を形成してきたように思える。英国は宗教戦争でそれほど疲弊せず、その間にローマ・カトリック教会の財産を没収し、国教会にしてしまった。清教徒が革命を起こすのは、エリザベス以降だ。清教徒は征服された方のアングロサクソンの流れだ。新教徒というより民族に見える。コモンローは彼らと征服王朝との合作が。千年前に英国に上陸したが、今度はコモンローを持ってまたアメリカに渡って行った。だがそこで創った憲法は最初から新ローマ帝国風だった。一番ローマの影響から遠い所にいたと思うのだが。彼らは新教徒だから禁欲的なのだろうが、頑なという印象だ。とすると新天地米国ではずっとシェークスピアは不人気だったということか。娯楽は教会だったのかな。笑

    我々の民法にもローマ法は生き延びている・・
    シェイクスピァも生きている・・・
    ( ^ω^)

  2. おののののか より:
    あの当時 海賊業

    エリザベス1世と言えば、伝統の海賊を海軍代わりに使って、スペインの無敵艦隊に勝った。皆、英国に上陸されると思っていたのでは。彼女は艦砲を乗せるのに必死だったのでは。放浪浮浪者は海賊船に乗せたのではないか。造船にも使ったのでは。続いて東インド会社を創って世界に飛び出した。放浪者も役だったのでは。結局英国は早くからの下の階級の分解を、うまく回収して外に出て行ったのでは。株式会社も海賊が発祥か。

    1572年信長健在で統一に驀進していた、1614年大阪の陣で家康は英国から仕入れた長距離大砲で、大阪城に弾をぶち込んでいる。こんな武器が既に世界にはあるのに、250年も鎖国するとは、幕末までの遅れは家康に責任があるのでは。信長に怒られるだろうな。笑

    日英とも内戦時代を終わらせたところだ。信長が生きていればエリザベス以上の事をしただろう。水軍・倭寇という海賊もいた。秀吉の朝鮮戦役とアルマダ海戦ではえらい違いだ。しかし英国はその後、市民革命が起きて、次のジャンプのために少ししゃがんだ。日本は外に出て行くならチャンスだった。アジアで民主革命も資本主義も起きるわけないから、そのうち圧倒されたかもしれないが、対峙していれば研究しただろう。あっというまに鉄砲が普及した国ですからね日本は。やはり家康独特の性格が、今の日本人の基だな。

    ネルソンの時代も・・
    足りない水兵は・・徴集隊が艦船ごとに組織され・・街に出かけて不運な連中を腕づくで徴兵した。まぁ敵船を捕獲・売却すれば子供兵にまで階級に合わせてボーナスを支払った。
    洗濯とか清掃・料理等で・・
    女性もかなり乗り込んでいた・・・( ^ω^)
    誰だ・??!!信長を殺害したのは・・・???
    それからエリザベス朝時代の英国の艦砲は役に立たなかった・・・
    ( ^ω^)

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